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企画報告

企画ウォーク…東海度・宇津ノ谷峠を歩こう

平成29521日(日)に駿府ウエイブ主催の企画ウォーク「東海道・宇津ノ谷峠を歩こう」が開催されました。当日は晴天に恵まれ、一般より応募された74名の方々が参加されました。宇津ノ谷・道の駅(下り線)に集合、10班に分かれて9時より順次出発しました。

ガイドした主なコースは、①宇津ノ谷・道の駅(下り線)→②立場・間の宿→③慶龍寺・延命地蔵→④お羽織屋→➄旧東海道→⑥雁山の墓→⑦峠の地蔵堂→⑧ひげ題目碑→⑨蔦の細道上り口→⑩木和田川堰堤群(昼食)→⑪坂下地蔵堂・羅経記碑→⑫大正のトンネル→⑬明治のトンネルの順で、約5.5Km、昼食を含めて4時間のウォーキングでした。

宇津ノ谷は、平安の路「蔦の細道」、戦国末期からの路「旧東海道」、トンネルも、「明治」「大正」「昭和」「平成」と四本通っている道の博物館です。新緑の5月、自然を満喫しながら平安時代までのタイムトラベルを楽しめたことと思います。

 道の駅(下り線)を出て、「蔦の細道」の入り口を過ぎると左側に白壁の倉庫のような和風建築が見えます。これが「宇津ノ谷トンネル管理所(通称)」です。トンネル内の照明、排気等の電気制御機能と火災に備えた消火用の貯水機能があります。小学校のプールと同じくらいの450tの水が蓄えられています。ここから国道1号線を陸橋で渡ります。

【宇津ノ谷集落 (立場・間の宿)】   

宇津ノ谷の集落は、江戸時代には「立場」と呼ばれていました。

「立場」とは江戸時代、駕籠かきが駕籠を止め、杖を立てて休憩し、馬方が馬を繋いで立てておいたところからその名前が付いたそうです。通行する旅人のための休憩所で、立場茶屋が置かれ、菓子、果物、お茶などが提供されました。立場には茶屋以外にも旅の備品を売る店も開かれ、次第に1つの集落が形成されていきました。それが「間の宿」です。幕府は「宿場」を保護するため、ここでの宿泊は禁止しました。

(写真右上:宇津ノ谷上の集落付近)

【慶龍寺と延命地蔵】

宇津ノ谷峠の集落の中ほど、街道から少し入ったところに、十団子で知られる曹洞宗の寺、慶龍寺があります。弘法大師の作と伝えられている延命地蔵尊が鎮守に、十一面観音菩薩が本尊に祀られています。延命地蔵尊は、最初からこの地に祀られていたわけでありません。旧東海道にあった峠下の「地蔵堂」に安置されていましたが、明治のトンネルが完成し、峠を通る人が減ったこと、峠の上では参詣に不便だと言う理由で慶龍寺に移されました。

十団子は上新粉で作った直径約1cmの団子を十個ずつ糸で通し、それを九本集めて数珠のような形で吊るされています。今でも十団子は、厄除けのお守りとして、地蔵縁日の823日・24日に境内で売られています。(写真右上:慶龍寺)

厄除けの十団子には、こんな伝説があります。昔、宇津ノ谷峠に旅人を食う鬼が現れ、在原業平の祈願により、地蔵菩薩が旅僧に姿を変えて鬼と対決しました。旅僧が人間の姿に化けた鬼に正体を現わせと言うと、大鬼に変身。次に、小さくなれるかと言うと、鬼は小さな玉となり旅僧の手に乗りました。旅僧は持っていた杖で、その玉を砕き、十粒に砕かれた鬼を飲み込み、それからは鬼の災いはなくなったということです。それ以後、道中守護のために十団子が作られるようになったそうです。

【お羽織屋】  

15903月、豊臣秀吉が北条氏と戦うため、小田原に進軍した際、この地にさしかかり、石川家の軒下に吊るしてあった馬の沓に目をとめて使い古した自分の沓と取り替えようとしました。ところが、主人は三脚分しか差し出さなかったので、「馬の脚は4本なのにどういうことだ」と尋ねました。すると「戦いに行く前に四という数字は縁起がよくありません。残る一脚は戦いに勝ってお帰りになる時に差し上げます」と答えたのです。その年の7月、戦いに勝っての帰路、再び石川家に寄った秀吉は、褒美として自分の着ていた「陣羽織」を脱いで主人に与えたのです。江戸時代には家康も訪れ、「茶碗」を贈っています。参勤交代で多くの大名がこの道を行き来した。秀吉の立身出世にあやかり、徳川の威信に敬意を表したかったのでしょう、みんな「陣羽織」を触っていったといいます。(写真右上:お羽織屋付近)

【旧東海道】 

 旧東海道は天正18年(1590)、豊臣秀吉が小田原の北條氏討伐に行く時に、17万とも言われる大軍を通すために拓いた道と言われています。その後、徳川家康公により官道とされ、江戸時代を通じて東海道として使われ、大名行列や朝鮮通信使なども通った道です。

【地蔵堂跡】  

地蔵堂跡には、土止めの石垣があります。復元された石垣かと思われましたが、土砂崩れのため埋没されていたものを、近年掘り出したものと記されています。平成12年の発掘調査で、地蔵堂跡地から2m四方と5m四方の二つの建物跡が発見されました。前者が大破する前、後者が永禄16年(1703年)に再建された地蔵堂跡と思われます。地蔵は明治42,建物と共に「慶龍寺」に下ろしたところ、翌年の土砂崩れで跡地は土砂に埋まってしまいました。

 

       地蔵堂跡                   髭題目の碑前

【髭題目の碑跡】

日蓮宗の信仰が盛んな県東部地区ではごく普通に見られる石塔ですが、この辺りでは割合珍しいものです。近くでは興津の身延道入口に見られます。「南無妙法蓮華経」の文字が独特の髯題目と呼ばれる書体で刻まれている石塔です。

【羅径記碑跡】 

「羅径記」という碑があります。「羅」は蔦、「径」は小路を意味します。文学的に価値の高い「蔦の細道」が荒廃し、昔の面影がなくなったことを嘆いた碑です。この碑は、文政18年(1830)年に駿府の第31代代官「羽倉簡堂」が建立したものです。「簡堂」は、駿府の代官を9年間勤めていますが、歌人でもありました。文字は当時「江戸時代の三筆」と言われた「市川米庵」が書いています。道路整備における2度の移転を経て、現在は、坂下地蔵堂境内にあります。

【木和田川砂防堰堤(兜堰堤)】  

これは、明治43年の豪雨による山腹崩壊を契機に、県が建設した石造空積砂防堰堤群であり、下流から1号、2号の順に8号堰堤まで配置されています。立面形状から「兜堰堤」と呼ばれており、最大規模は2号堰堤で堤長が25mあります。明治期の構造形式を踏襲しつつ、台形越流部という近代的技術が加味されています。現在は周囲の緑が回復し、石造構造物も一体となって、自然景観とよく馴染んでいます。国道1号線から8号提まで1.7㎞ある。自然景観との馴染みの良さから、平成146月にこれらの全てが国の登録有形文化財に登録されました。

【蔦の細道】  

7世紀の律令時代に交通制度「駅伝制」ができますが、蔦の細道は、「伝路」として登場します。地域間の自然発生的な道だっただろうとされています。その後、「駅路」であり30度の急勾配のある日本坂超えは衰退し、「伝路」であった蔦の細道は、東西交通の主役となってくるのです。

蔦の細道の名前の由来は、在原業平の書いた「伊勢物語」の一節『行き行きて駿河にいたりぬ。宇津山にいたりて、わが入らんとする路はいと暗う細きに、蔦かずらはしげり、・・・』からきていると言われています。この道が世に広く知られるようになったのは、伊勢物語(平安前期の文学作品)に登場してからです。(写真右上:蔦の細道・岡部側上り口)

※駅伝制では「駅路」と「伝路」とがありました。(「駅路」=都と地方の国の役所と結ぶ官道、「伝路」=地方の国の役所と地方の中の都の役所を結ぶ官道を指します。)

 

「つたの細道公園」で約30分の休憩と昼食。午後は坂下地蔵堂からスタートです。

 

              「つたの細道公園」にて昼食

【坂下地蔵堂 (鼻取地蔵・稲刈地蔵)】

坂下地蔵には次のような伝説があります。

 農作業を終えたお百姓が家に帰る途中、連れていた牛が動かなくなってしまいました。困っていると一人の子供が現れ、牛の鼻を取って、楽々と曳いていったそうです。目を離したすきに子供の姿が見えなくなったので、足跡を辿ると地蔵堂の中に消えていったそうです。動かない牛の鼻を取って助けてくれたのはお地蔵さんだということで、以降このお地蔵さんを「鼻取地蔵」と呼ぶようになりました。

また、この地域では毎年稲刈りが終わると伊勢参りに行くことになっていました。老父母と3人暮らしの若者の家は稲刈りがはかどらず、諦めていました。他の人たちが伊勢参りに行く日に若者が稲田に行くと稲刈りは済んでおり、若者は伊勢に旅立つことができました。実は、稲刈りをしてくれたのは坂下のお地蔵さんだったのです。以来、願い事がある時は鎌をお供えするようになり、稲刈地蔵とも呼んでいます。(写真右上:坂下地蔵堂)

【大正のトンネル】  

明治の終わり頃から登場した自動車は急激に増加し、政府は道路改良計画に着手し始めます。宇津ノ谷峠にも新しい車の通れる道が必要とされ、準備が始まりました。

建設工事は、大正15年に着工され、昭和5年に開通しました。トンネルの銘板は、岡部口は「昭和5年」、宇津ノ谷口は「昭和30年」と書かれています。昭和29年9月に襲来した台風14号で、宇津ノ谷口が大崩壊し、トラック5台が埋る大災害が起こり、国道は2ヶ月間もストップしました。銘板の日付けが違うのは、この時の工事のためです。中間付近には完成後補強した部分とそれまでのレンガの壁面が見られる。

(写真右上:大正のトンネル岡部側口)

【明治のトンネル】

明治7年、安倍川に橋が架けられると丸子~静岡間の輸送経路が完成し、物流が活発になると、峠越えの道よりもトンネルへのニーズが高まってきました。安倍川橋を完成させた静岡市弥勒の「宮崎総五」は、旧岡部町の杉山喜平氏らに働きかけ、他の6人と結社し、明治7年に着工、2年後の明治9年に日本で初めての有料トンネルを完成させました。総工事費は約24,800(1/38,300円は、官より支給)15万人もの人たちがトンネル工事にたずさわりました。地盤の悪い静岡側から20mは青石づくり、それ以外は角材を組み合わせた構造で内部は真っ暗、照明用に50個ものカンテラが必要でした。また、トンネルはピタリと合わず、「くの字」に曲がったり、段差が出来たりしました。有料トンネルの通行料は、大人2厘、子供1厘でしたが、明治22年に東海道線が開通すると旅人が極端に減少し、採算が合わず大人6厘、子供3厘に値上げされました。明治32年には、カンテラの失火で火災が発生し、内部の骨組みの崩落により通行ができなくなりました。 明治36年に修復が開始され、翌年には赤レンガで覆いつくされた一直線のトンネルに変貌を遂げました。その後、平成8年に行われた2度目の改修では、トンネルの補強や照明がつけられ、平成9年に現役のトンネルとして日本で初めて国の登録有形文化財となりました。

 

     明治のトンネル静岡側口         明治のトンネル内部

 

4時間のウォーキングお疲れさまでした。次回は、8月に「県民の日・ウォーク」を1011月には「駿府96ヶ町・ウォーク」などを予定しています。またのご参加をお待ちしています。

 



東海道~志みづ道を歩こう

駿府ウエイブ主催の「東海道~志みづ道を歩こう」が、晴天に恵まれた318()に開催されました。午前9時に静岡鉄道狐ヶ崎駅に集合、10班に分かれ順次、狐ヶ崎駅をスタート、ゴールの海野孝三郎顕彰碑を目指して出発しました。一般の参加者は103名、駿府ウエイブ会員のガイドのもと東海道~志みづ道の約5.5Kmのウォーキングを楽しみました。(写真右上:静鉄狐ヶ崎駅)

コースは、狐ヶ崎駅→聖一国師堂→吉川八幡神社→谷津沢川水路橋→追分洋かん本舗→志みづ道道標→上清水八幡神社→百華山禅叢寺→下清水八幡神社→湊橋・甲州廻米置場跡→清水次郎長の船宿「末廣」→海野孝三郎顕彰碑でした。今回、ガイドをした主要な箇所を以下にご紹介します。ところで、「志みづ道」とは…江戸時代、清水湊と東海道を結ぶ輸送路として、廻船問屋と馬方、牛方たちにより駿府に物資が運搬された道を言います。現在は民家が密集してはいますが昔の面影をとどめています。

【狐ヶ崎駅(静岡鉄道)】   

狐ヶ崎駅は、静岡市民にとって思い入れのある駅といえるでしょう。沿線開発に力を入れ始めた静岡鉄道(当時は静岡電気鉄道)は、昭和2年、この駅のすぐ南側に広大な狐ヶ崎遊園地を開業し、それに合わせて駅名を上原駅から狐ヶ崎駅に改名しました。遊園地はおよそ1万坪の敷地に、ボートのある池、食堂、動物園、運動施設などがあり、子供連れの家族が1日楽しめる、当時としては最先端の施設でした。開業から半年で93千人もの客が訪れたそうです。

狐ヶ崎遊園地の開業に当たって、遊園地の楽しさが伝わるような歌を作ろうということになりました。作詞・北原白秋、作曲・町田嘉章による『ちゃっきり節』がその歌です。当時は企業がPRのために歌を使用すること自体が皆無で、ちゃっきり節は日本で最初のPRソングといわれています。歌は30番まである壮大なものでした。 (写真右上:狐ヶ崎遊園地の風景  静岡鉄道発行「静岡鉄道70年の歩み」より)

【聖一国師堂】

聖一国師(12021280)は、私たち郷土静岡市栃沢に生まれ、静岡茶の始祖として知られています。師は、日本と中国の著名な寺で修行を積んだのち京都五山の一つ東福寺の開山となり、僧侶として最高の栄誉である「国師」の号を日本で最初に贈られた高僧です。

 

聖一国師堂前にて

国師の功績は多大で、中国(当時の宋)から、茶の種子や麺類、人形などの技術を持ち帰り我が国に伝えて、日本の産業と文化の進歩のために大いに貢献しました。今日、お茶の静岡と云われる静岡茶の起源は国師が中国から持ち帰った茶の実を静岡市の足久保に植えたのが始まりです。1954(昭和29年)聖一国師が初めて仏門に入った久能寺に近い、ここ狐ヶ崎(当時の狐ヶ崎遊園地)の御堂に、国師の高徳を称え、偉大な功績に感謝して後世にその遺徳を伝えようとして国師真像を安置して開眼の儀を行いました。以来、この御堂を聖一国師堂と呼び毎年春秋の二回供養・法要を行ってその遺徳を偲んでいます。

【吉川八幡神社(旧鳥居)】

清水区吉川は、鎌倉武士として活躍した吉川氏発祥の地です。吉川氏の初代「経義」は、寿永2年(1183)源頼朝より吉川の地を賜り、2代「友兼」は、正治2年(1200)梶原一族を「狐ヶ崎の戦」で打ち破りました。その功績によって源頼家は3代「朝経」に播磨国福井庄(姫路市)を与えました。4代「経光」は、承久の乱(1221)の戦功により安芸国大朝庄(おおあさのしょう)の地頭職に任命され、5代「経高」は、正和2年(1313)この地を離れ、本拠を駿河の吉川から安芸国大朝庄に移しました。

当神社は、2代「友兼」がこの地の地頭職に任命されたのを記念して、鎌倉の鶴岡八幡宮からご分霊を勧請したと伝えられています。

吉川本家が周防の国岩国藩の大名になってからは、参勤交代の時には藩主は必ず駕籠を降りて供を具して参拝したそうです。尚、2代友兼が梶原景茂を討った刀剣「狐ヶ崎丸」は、国宝として岩国市の「吉川史料館」にあります。

平成15年(20031月、静岡市地域登録文化財第一号として登録された旧鳥居は安政元年(1854)の大地震によって倒壊、埋没していたものを、十数年前に発掘したものです。周防の国岩国藩(岩国市)の第七代藩主、吉川経綸(つねとも)が寛政元年(1789)に奉納し、およそ400字の漢文が石刻されています。柱には吉川氏と梶原氏の戦いや承久の乱の功績、村民への感謝、神のご加護への熱い思いが彫られています。(写真右上:吉川八幡神社「旧鳥居」)

【谷津沢川水路橋】

この橋は、鉄道線路の上を谷津沢川が流れ、そのまた上に歩道があるという日本でも珍しい橋の一つです。かつて、狐ヶ崎駅があるあたり(吉川・上原)は丘陵地として地続きでしたが、明治19年(1886)頃の東海道本線敷設の際、丘陵地を掘って東西に切り通しをつくり、そこに線路を敷きました。そこには谷津沢川が横断するように南北に流れていますが、川を線路が分断してしまうので、線路の上に、水を流す橋『谷津沢川水路橋』を架けました。東海道本線の開通は国の威信をかけての大事業でしたが、この水路橋は下流域農地の灌漑用水を確保し、当時の主要産業だった農業を守るために必要不可欠な橋だったのです。(写真右上:谷津沢川水路橋)

 

国鉄のSL300型電車 静岡鉄道発行「静岡鉄道70年の歩み」より

【追分羊かん本舗(追分二丁目)】

『昔、追分に住む府川家の主人が箱根の山中で、旅先で病の為に苦しんでいた明の僧と出会い、心温かく介抱し、やがて病が癒えた僧は大変喜んで、小豆のあつもの作りの秘法を伝授して立ち去った。』それが追分羊かん製法のいわれと言われています。江戸時代後半の寛政のころ、府川家の先祖 直右衛門は、三保、駒越、元追分でサトウキビ栽培、砂糖製造を広めました。そして、精糖のかたわら、この砂糖で蒸し羊かんを作り、東海道の名物として販売しました。十五代将軍徳川慶喜公も、清水湊へ行く途中、たびたび府川家に立ち寄って、休んでいったといいます。府川家には慶喜公の書が残されています。(写真右上:追分洋かん本舗)

【志みづ道 道標(追分二丁目)】

旧東海道と志みづ道の分岐点(追分)に建てられている御影石の道標があります。もとは、道路の反対側に建てられていました。道標は江戸時代の元禄10年(1697)前後に建立されたものとみられています。正面に「南無妙法蓮華経」、両側に「是より志ミづ道」と「七面大明神守護」、裏面に建立者「実相院法入日中 法春日陽寿位」と記されています。建立した谷口一族は日蓮宗を厚く信仰した京都の豪商で、東海道を中心に街道筋109ヶ所に道標を建てたことで有名です。道標は静岡市地域登録文化財になっています。(写真右上:志みづ道 道標)

【清水湊と廻船問屋】

清水湊において大きな役割をはたしていたのが廻船問屋(諸問屋)でした。元和元年(1615)、大阪夏の陣で徳川方に味方し、食料・兵器輸送に携わった清水湊の商人、船舶所有者、土地の有力者たち42軒にその功労として、徳川家康から特別の権利が与えられました。株仲間としての廻船問屋の誕生です。

廻船問屋は特権として安倍川から富士川までの問屋営業、廻船業の独占を与えられました。主な取扱い商品は米を中心に、塩、たばこ、干鰯、樽荷(酒・醤油・酢)などでした。一方で、御前崎から伊豆半島下田までの間の海難救助と処理、相州・浦賀役所の無断通過船の取調べなど今で言えば「海上保安庁」的な義務的役目や「御船御用(駿河小早による幕府の御用役)」も務めていました。廻船問屋の株売買は認められたが新たな許可はありませんでした。従って問屋名義に異動はありましたが、その数は当初の42軒から増えることなく、天保13年(1842)の38軒まで殆ど変化はありませんでした。なお、文化10年(1813)は39軒でしたが、その町別問屋数は、本町が17軒で最も多く、上2丁目が10軒、上1丁目4件、袋町・新魚町・本町で計7軒、美濃輪町1軒となっていました。江戸時代後期にはいると天保の改革(特権の停止)、安政の大地震、周辺商人の台頭などで問屋の多くが転廃業せざるをえなくなり、明治維新(明治6年(187310月静岡県知事指令)により特権的問屋制度に終止符が打たれました。現在、この廻船問屋をルーツとするのは鈴与(播磨屋与平)、天野回漕店(天野屋九右衛門)、青木トランス(間瀬卯兵衛)などです。

 

土蔵・石蔵群(本町)

 

【清水次郎長の船宿「末廣」】

船宿「末廣」は、明治19年次郎長が晩年、清水波止場に開業した船宿で、経営するとともに自宅とし、74歳で生涯を閉じるまで過ごしました。次郎長には資金がなかったため、山岡鉄舟や県知事など地元の有力者の協力により開業しました。「末廣」は、山岡鉄舟が命名し、明治19年11月に開業披露の祝賀会を開いたそうです。「末廣」は、関東、関西からの商人が宿泊し、また日本海軍の軍艦が入港するようになったため、士官達の定宿となり繁盛したといわれています。当時、横浜と清水を結ぶ海上1日半の航路には静隆社の「静岡丸」や「第二福沢丸」などの蒸気船が就航しており、船客達はこの船宿を江尻や静岡などへの中継点としていました。

現在の「末廣」は、鶴舞町の住宅で転用されていた「末廣」の大黒柱や鴨居、欄間などの部材を使って復元されています。「末廣」は、晩年の次郎長を垣間みることができ、清水港の振興に尽力した姿を知る貴重な資源として、市が一億一千万円かけて、実際にあった場所(日の出町、マリンパーク付近)から数百メートル離れた場所に、150年後、平成13年に復元しました。(写真右上:清水次郎長の船宿「末廣」)

 

波止場の船宿末廣付近 「清水開港100年史」より

【海野孝三郎顕彰碑】

海野孝三郎は、駿河国安倍郡井川村の生まれで、生家は徳川家康以来、将軍家の御用茶を管理した井川村きっての旧家でした。海野孝三郎は、静岡産のお茶を清水港から輸出する目的で、茶の再製工場をつくったり、また誘致したり、輸出会社を設置し販路拡大のためアメリカやヨーロッパ・アジアの各地を視察してまわり、清水港を茶の一大輸出拠点とすべく奔走しました。明治39(1906)長年の努力が実り、アメリカ向けの茶を日本郵船の神奈川丸が清水に寄港してアメリカ向けの茶の輸出が開始されました。清水港からの直輸出により横浜や神戸にあった外国商社が、次々と静岡市に集まりました。茶の産地とし、その輸出港としての清水港が大いに発展することとなりました。その功績を称え、昭和12年清水港が見渡される日本平山頂に顕彰碑が建てられましたが、平成の時代になって茶の直輸出に悲願をかけた清水港の一角に移設されました。(写真右上:海野孝三郎顕彰碑前)

晴天に恵まれた「東海道~志みず道を歩こう」は、無事に終了しました。お疲れさまでした。江戸時代に廻船問屋が立ち並んだ清水湊。明治以降はお茶の輸出港としての役割を担い、国際貿易港として発展した清水港をタイムスリップすることができたかと思います。次回の企画ウォークは「東海道・宇津ノ谷峠を歩こう」です。またのご参加をお待ちしています。






「東海道 薩峠」を歩こう~開催されました

平成2924()、《「富士山の日おもてなし体験イベント》として、駿府ウエイブの主催・清水区観光ボランティアの会の協力を得て『「東海道 薩埵峠」を歩こう』が開催されました。興津駅に午前9時に集合、11班に分かれて順次興津駅をスタート、晴天に恵まれて薩埵峠の風光明媚な風景を楽しみながら由比駅まで約6.7kmのウォーキングを楽しみました。一般参加者は119名。道中は、駿府ウエイブのガイドの他、途中の興津川・川越場跡、薩埵峠、由比地すべりセンターでは由比観光ボランティアガイドの説明を聞くことができました。

(写真右上 :  由比薩埵嶺(保永堂版) 静岡市東海道広重美術館蔵)

コースは、①興津駅→②一里塚跡(江戸・日本橋より41番目)→③身延道道標→④宗像神社→➄興津川・川越場跡→⑥海岸寺→⑦白髪神社→⑧薩埵峠→⑨一里塚跡(40番目)→⑩西倉沢→⑪望嶽亭藤屋→⑫名主の館・小池邸→⑬由比地すべり管理センター→⑭由比駅でした。ウォーキングの途中でガイドした主要な箇所をご紹介します。

【身延道道標・石塔寺(せきとうじ)跡】  

鎌倉期にはこの道は開かれてといわれ、戦国時代には駿河進攻をもくろむ武田信玄により整備され、駿河と甲斐を結ぶ交易路でした。江戸時代初期には身延山久遠寺への信仰の道として確立されました。道標は身延道の分岐点です。

石塔寺は廃寺となりました。門前にあった題目と道標、七面山常夜燈が現存しています。 髯題目の碑は高さ3m、「南無妙法蓮華経」と刻まれ、側面には承応3年(1654)と彫られています。(写真右 : 身延道の分岐点)

【宗像神社】  

古くは「廬原神社(いほはらじんじゃ)」ともいわれていました。祭礼731日創建年代は不詳、筑紫の宗像大社の神を勧請したともいわれ、御祭神はスサノオノミコトの子の3人の女神(宗像三神)で航海安全の神さまです。三神の一人奥津島姫命が興津の地名の由来と言われています。宗像の神は江戸時代に弁天信仰と同化し、境内の森は「女体の森」、池は「弁天池」といわれています。 地元の漁師は、神社の森や松の木を目印にしていました。

(宗像三女神)

奥津島比売命 オキツシマヒメノミコト、狭依姫命 サヨリヒメノミコト、多岐津比売命 タギツヒメノミコトの3柱です。

宗像三神を祀る神社では中心に市杵嶋姫命 シキネヒメノミコトが祀られていることが多いのですが、ここでは奥津比売命が中心に祀られています。(写真下: 宗像神社)

【興津川・川越遺跡】

   旅人は両岸にあった川会所で「越し札」を買い、蓮台または人足の肩車で川を越しました。

「越し札」はその日の水深によって下記の如く値が違い、蓮台越しの場合は札4枚を要しました。深さが4尺5寸(150cm)を越すといわゆる川止めとなりました。但し、冬期(10月5日から3月5日まで)は仮橋が架かり無賃で渡ることができました。川越しの人足は興津川で36人が常備されており、大通行があると250人以上が動員されました。               ※明治7(1875)に浦安橋が完成し、川渡しの制度は廃止されました。


【観音山海岸寺】(曹洞宗宗徳院の末寺)

  古くから「海岸菴」と呼ばれてきましたが、現在では「観音山海岸寺と言います。本寺の什宝として注目されるのは、「海岸菴」と書かれた縦20㎝、横50㎝の寺号額です。

 この額の左端に「朝鮮国紫峰」と書かれていますが、「紫峰」とは朝鮮通信使の写字官「金天秀」の号です。写字官とは書の名手として派遣された朝鮮通信使の一役職です。

 海岸寺に通信使が訪れたのは、寛永13年(1636)12月1日の復路でした。

  江戸の将軍家からの帰途、清見寺に休息する目的で峠越えをして来たところ、折からの出水で興津川の川止めにあい、しばらく逗留しますが、その時一行の中にいた「紫峰」が木片に「海岸菴」と書いたものです。

   もう1つの什宝としては、「百体観音像」があります。百体観音とは、西国33

ケ所、坂東33ケ所、それに秩父34ケ所の観音で、この百観音にお参りすればご利益があると言われています。

   境内に入ってすぐ右手には庚申塔があります。村のお年寄りによると、この庚申塔は「失せ物に効く」とのことです。物がなくなって困ったら、左縄をなって石塔に巻いて願を掛けてお参りすると「失せ物」が出てくるそうです。


【薩  峠】

(薩とは) 

「薩」とは、仏教の専門用語「菩提薩埵」を略したもので、「薩」には“命のあるすべての生き物”という意味があります。文冶元年(1185)の大波の時、海岸に打ち寄せられた「地蔵菩薩」を漁民が山上に祀ったことから、それまで「磐城山」と呼んでいた山を「薩山」と呼ぶようになった、と言われています。

(薩峠の四道)

  地蔵道峠の少し由比側に「さったぢぞうミち」の刻字のある道標がありますが、蒲原・由比宿から薩地蔵へ参る参詣者が通ったみちで、現在の薩峠の駐車場から興津方面に向かう車が通れる道です。

  上道

天和2年(1682)の5代将軍綱吉の代替わり祝賀の朝鮮通信使の来朝の時に、「中道」も大波の危険があるということで、「中道」の上を通る道を開いたのがこの道です。

  中道

明暦元年(1655)、4代将軍家綱の将軍襲封を祝う朝鮮通信使一行の通行に際し、下道では波の危険があるということで、山道を切り開いて造った道で、山腹を経てへ至る道です。

  下道

峠の絶壁の海岸沿いを、波が引いた瞬間に通り抜けなければならない山下の難所で、「親知らず、子知らず」と呼ばれ、古来から利用されてきた道です。

※その後、朝鮮通信使のために開削された薩埵峠は、一般の人も利用する道となりますが、1854年の安政の大地震による薩埵峠下の海岸線の隆起により、海沿いの道が通れるようになり、今の峠道は徐々に廃れていきました。

【薩峠展望台と東屋、薩峠説明板】
    山側に展望台があり、台にあがると歌川広重描く東海道由井薩嶺の浮世絵

と説明板があります。晴れていれば、素晴らしい富士が見えるところです。現代

も、そして昔もここは絶景の地でありました。広重の浮世絵「由比薩嶺」にも

描かれているところです。

「ここは山水の風景真妙して海道一の勝地なり」『東海道名所図会』

【望嶽亭藤屋】

その昔、脇本陣、茶屋として多くの文人墨客で賑わったところでして、あわび・さざえの壺焼きなどの磯料理が名物の茶屋で、離れ座敷からの富士山の眺めが素晴らしいので「望嶽亭」と称するようになりました。

慶応437日、薩峠で官軍に追われた山岡鉄舟は、峠を西に下ることが出来ずに、西倉沢に下りて来ました。追ってがそこまで来ているので逃げる術はありません。

鉄舟は望嶽亭に逃げ込みました。訳を聞いた時の主人は鉄舟を蔵屋敷で漁師に変装させ、隠し階段から海岸へ逃し、舟で清水まで送り清水次郎長にその身柄を託したそうです。

次郎長は若い頃、望嶽亭の主人に大変世話になっていたので、恩返しの積りで鉄舟を温かくもてなし、 39日になると次郎長は子分と共に自らも護衛役と道案内を買って出ます。

そして、警戒の厳しい東海道を避けて、久能街道から駿府に入り、西郷隆盛の旅宿である伝馬町の松崎屋源兵衛方に鉄舟を送り込んだものと推察されます。

鉄舟が残していった最新式フランス製十連発のピストルが望嶽亭にありますが、これには「鉄舟が漁師に変装して望嶽亭から逃げ出す時に置いていった。」という説と「鉄舟が西郷との会見を終え、西郷から帰りの通行手形をもらって江戸へ帰る途中に置いていった」という2説があるようです。(写真右上 : 望嶽亭藤屋での説明)

 

【間の宿「西倉沢」】

西倉沢村は由比宿と興津宿の中間にあり、薩峠を控えた間の宿として繁盛しました。宿と宿の間にある村を「間の村」と言いますが、これらの村の中には旅人の休憩の為の茶屋を設けたり、給仕女を置いて旅篭屋まがいの行為を営む所もあり、それらを「間の宿」と言いました。

この「間の宿」の立場茶屋では湯茶や水菓子・団子・酒肴をつけた食膳も供され、旅人にとっては重宝でした。しかし、茶屋の繁盛は給仕女の売春化を促し、これに対して旅篭屋からの苦情があったことから、幕府は延宝6年(1678)従来の茶屋以外の新規営業を禁じ、給仕女の数を1軒に2人までとしました。(写真右上 : 西倉沢の街並み)

その衣装も布・木綿に制限し、営業時間も明け六ツ(午前6時)から暮れ六ツ(午後6時)までとして、それ以後客を置くことを禁じるという措置をとりました。しかし効果は無く旅篭屋まがいの行為はいっこうに衰えず、旅篭屋の飯盛女と茶屋の給仕女とが宿はずれで客引き合戦をする有様でした。文政7年(1824)には、参勤の諸大名が立場茶屋などで宿泊・休憩することを禁じ、本陣を保護しました。

西倉沢村には本陣・脇本陣ほか5、6軒の茶屋があり、本陣は「川島勘兵衛」脇本陣は「藤屋七郎兵衛」「灘野屋太右衛門」が勤め、幕末には「柏屋幸七」が灘野屋に代わって勤めたといいます。もとより、本陣・脇本陣の呼称は正式に認められていませんでしたが、興津宿や由比宿よりも景色が良かったので大名の中には休息する者も多かったようです。

【名主の館「小池邸」】

 小池邸は明治期に建てられましたが、現在は由比町によって改修・修復され休憩処として利用されています。

低い軒の瓦葺き、くぐり戸付きの大戸や格子、ナマコ壁など、当時のこの地域の民家の面影を良く残しています。邸内には小池家に伝わる古文書や高札などが展示してあり、庭園は池の石組みなどはそのままに、使われていた庭石や灯籠などを利用して「水琴窟」が新たに設けられています。平成10年、国の登録有形文化財に指定されました。

【由比地すべり管理センター】 寺尾571-1 

開館:10:0012:0013:0016:00 休館日:火・木曜日、12/291/3 入場無料

  平成12年(2000)に設置されました。由比地区の地すべりの状況とその防止施設について、模型やパネル展示でわかりやすく解説しています。また、ここでは由比地区の地すべりの動きをコンピューターにより24時間監視しています。

(寺尾地すべり)

昭和36(1961)314日寺尾山南側で大規模な地すべりが発生、国道一号線、東海道本線まで土砂が到達し大きな社会問題となりました。国による対策が行われ、土砂は東名高速道路由比海岸の埋め立てに使用されました。(写真右下:建設中の東名高速道路 昭和42年頃・佐野写真館提供)



興津駅をスタートしたウォーキングは「小池邸」で一旦ゴールとなり、由比地滑りセンターには希望者のみの参加となりました。終了後、希望者を由比港「浜のかきあげや」までご案内し由比の味を楽しまれた方もいらっしゃいました。晴天に恵まれ、美しい富士山を見ながらのウォーキングは、無事に終了しました。またのご参加をお待ちしています。

ウォーキングマップ





「駿府城 西北の町」を歩こう~企画ウォークウォーク」 駿府駿府西北の町」を歩こう

平成281123()勤労感謝の日、駿府ウエイブ主催の《「駿府城 西北の町」を歩こう》が開催されました。天候は、若干肌寒い曇り空でしたが、122名(小学生以下2名含む)の方が一般参加されました。静岡市役所・本館前に集合し、930分より11班に分かれて順次出発しました。コースは①御幸通り②四足町・本通・静岡天満宮③上魚町・車町・研屋町・茶町④上桶屋町・土太夫町・柚木町・安西➄北番町・共祭招魂社跡⑥井宮町・山岡鉄舟旧宅跡安倍鉄道井宮駅跡薩摩土手⑧松樹院⑨瑞龍寺など「駿府城 西北の町」を駿府ウエイブ会員のガイドにより廻りました。ここでは、ガイドした主要な箇所をご紹介します。(写真・右上 静岡市役所・本館前での受付状況)

【静岡鉄道市内線】

先ずは、静岡鉄道市内線に沿って市役所前より安西まで歩きます。静岡市内線は、静岡駅前~新静岡~安西に通ずる2.0Kmを路面電車として活躍しました。大正14年に開業、静岡駅前で国道1号線を横断することが最大の欠陥となり昭和37年に廃止されました。

(写真・下は、静岡市文化財資料舘のご協力より掲載しました。)

     昭和37年 金座町付近        昭和37年 安西終点付近

【静岡天満宮】

御幸通りを左折し、本通を進むと静岡天満宮があります。安倍川の経路が定まらなかった頃、流れの中にひときわ目立つ石があり、それが天の神の降臨するところとして祀られ、いつしか「川中天神」と呼ばれていました。これが天満宮の境内に大切に伝えられてきたことは、天満宮の出発点が石と深い関係をもっていることを物語っています。静岡天満宮の御祭神は「菅原道真公」です。道真公を祭る天満宮には神の使いとして牛が祀られています。牛は「天神様のお使い」撫でると夢を叶えてくれるとも言われています。(写真・右上 静岡天満宮)

【研屋町・顕光院(医王山)

駿府城の南西に研屋町があります。明治初年顕光院裏から安西にかけて人家は全くなく、町内の清冽な湧き水は研ぎに適していたと言われています。

「東海道中膝栗毛」の作者として有名な十辺舎一九は、駿府町奉行同心をつとめる重田家の出身で両替町に生まれました。本名は重田貞一。人気作家として大成し、天保2(1831)に江戸で亡くなると浅草東陽院に葬られました。顕光院に一九の墓はありませんが、重田家は古くからの顕光院の檀家であり、一九の誕生より100年ほど前の先祖からの墓塔があります。(写真・右上 顕公院)

【山岡鉄舟旧宅跡】

慶応4(1868)官軍5000人が江戸を目指し駿府まで進んできた時、山岡鉄舟は幕府の使者として駿府に参り、伝馬町の松崎屋で西郷隆盛と面会しました。その後も勝海舟らと官軍と徳川方仲介を務め平和な新しい社会に力を尽くしました。

新政府の役人として静岡に来てからは、井ノ宮の十分一の役所跡に住み、静岡県の権参事を務めた後は、茨城県参事、伊万里県(現佐賀県)権令となり、その後明治天皇侍従などの役を務め、明治21年(1888)病死し谷中全生庵に葬られました。(写真・右上 山岡鉄舟旧宅跡記念碑)

【安倍鉄道(今年は開通100)】 

大正時代、安倍川流域の北部山間における植林の進歩に伴い、木材、薪、炭は年々生産量が増加し、市内中心部への移送手段がひっ迫してきたため、井ノ宮駅を起点として牛妻までの約9.3Kmに安倍鉄道が大正5(1916)4月に開通しました。しかし、昭和に入りバス、トラック輸送が開始され、昭和7(1932)に廃止されました。当時の井ノ宮駅は、今の井ノ宮交番裏の一角、約800(2,640m2)の敷地が安倍鉄道の起点駅でした。


      安倍鉄道井宮駅跡          大正10年頃の井宮駅(山梨写真館提供)

【薩摩土手】

薩摩土手は権現堤(つつみ)、または一部明治末期まで火葬場があつたため火屋土手(ひやんどて)と呼ばれ、江戸時代の始めに造られました。薩摩土手という呼び名が初めて記録に見えるのは、旧静岡市史に掲載の天保13(1842)に描かれた地図「駿府独案内」と言われています。静岡市史によると慶長11(1606)薩摩藩主島津忠恒が徳川家康公の命により井ノ宮妙見下から弥勒まで約4Kmにわたって築堤したのが薩摩土手と言われています。(写真・右上 薩摩土手記念碑)

【瑞龍寺(曹洞宗)

天下取りをめざした豊臣秀吉は、徳川家康を懐柔するために、佐治日向守に嫁いでいた異母妹の旭姫を離縁させ、築山殿の死後正室をもたなかった家康のもとに天正14(1586)嫁がせました。この時、家康は45歳、旭姫は44歳でした。しかし、旭姫は天正16(1588)母の大政所の病気見舞いに上洛、みずからも病になり1590年京都聚楽第でなくなりました。家康は葬られた京都の東福寺より遺骨を分骨してもらい、旭姫がたびたび訪れたというこの寺に石塔をたてて供養しました。瑞龍寺の寺号は、瑞龍寺殿の法号によるものです。(写真 瑞龍寺)

瑞龍寺を過ぎ浅間神社に到着です。路面電車のあった町、御幸通り・本通・静岡茶の集散地として栄えた茶町・安西の町を経て、安倍鉄道の井ノ宮駅跡・静岡の町を洪水から守った薩摩土手、賎機山の西麓を訪ねた約3時間、5.5Kmのウォーキングの終了です。お疲れさまでした。またの参加をお待ちしています。

ウォーク終了後、ご希望のお客様を「駿府城天守台掘削調査現場」へご案内しました。

※当日は、ゴールを中町から浅間神社に変更させていただきました。



『北街道から長谷通りを歩こう』企画ウオークが行われました。


 101日(土)に108名のお客様が参加して企画ウオークが行われました。11班に別れてそれぞれ駿府ウエイブ会員によるガイドで静岡市内を歩きました。受付時には小雨で心配された空模様でしたがスタートしてからは殆ど傘を使うことなくゴールの西草深公園にたどり着きました。終了後は近くの静岡浅間神社で初めて行われた大神楽祭を見学しました。

コースとマップ 
 駿府城公園・東御門⇒城代屋敷跡⇒江川町・新谷町⇒西郷・山岡会見の地⇒伝馬町⇒鷹匠稲荷神社⇒水落町⇒横内町⇒先宮神社⇒北街道と横内川の由来碑⇒巴町地下道⇒来迎院⇒陸軍練兵場跡⇒熊野神社⇒駿府御薬園跡⇒若宮八幡宮⇒西草深公園

 

(ガイド担当全員で打ち合わせ)

(受付の様子)

   

                                        (そろった班から随時出発します)
(東御門からスタートです)東御門は駿府城二の丸の東に位置する主要な出入口で、高麗門と櫓門を組み合わせた枡形となっており、平成8年20億円をかけて復元されました。




(西郷・山岡会見の地)江戸時代末期の慶応
4年に幕府軍最高司令官:勝海舟の命を受けた幕臣:山岡鉄太郎(鉄舟)と江戸に向けて進軍していた西郷隆盛が会見した場所(駿府松崎屋源兵衛宅)で、交渉の結果江戸城無血開城が決まった。


(横内御門付近)横内御門は駿府城へ入る北東側の出入口で、三の丸堀の東は北街道沿いの商店街の下に埋没しています。




(水落付近の2系統ある水路:三の丸堀から横内川)駿府城の堀からあふれた水が横内で落下し、横内川に通じていたことから水落の地名が生まれたそうです。横内川用水路は駿府城内・城下に物資を輸送する重要な役割がありました。


(老舗の蕎麦屋さん:安田屋本店)代々が晒屋(さらしや)で川の流れで木綿を晒していましたが、慶応3年に蕎麦屋へ転業以来、静岡そばの伝統を守り続けています。徳川慶喜・山岡鉄舟、勝海舟も立ち寄ったそうです。




(家康公ゆかりの来迎院)徳川家康が創建した浄土宗の寺院で本山は京都知恩院、ご本尊は阿弥陀如来立像です。家康公お手植えのヤマモモの木が庭園に繁り、由比正雪の位牌もあります。







(先宮神社本殿を案内中)本殿は浅間神社の麓山神社改築に伴い下賜された建物といわれており、浅間神社の先にあることから、先宮神社と言われるようになったようです。



(駿府御薬園跡)約4,300坪の広さがあり、国内、中国、西洋のものまで種々の薬草木を栽培していた場所で安東の薬園とも言われていました。幕末まで老中が交代でこの薬園を守っていました。



(若宮神社にある巨木のクス)明治の頃まで志貴家が代々神部神社の神主を世襲されており、若宮神社の土地は志貴家地の神を祀っている場所です。境内には静岡市天然記念物の巨大なクスの木が繁っており落雷などで幹の中央部が空洞化しています。



(洋館レストラン ミス・カニングハム)旧マッケンジー邸も設計したアメリカ人建築家(ヴァーリズ)による設計で英和女学院の宣教師館として建てられました。
2016年に登録有形文化財に指定され、予約制のレストランとして営業しています。


(ゴールの西草深公園)ここにはかつて浅間神社の社家屋敷があり、明治2年に静岡藩主となった徳川家郷公が移り住みました。ここにあった門は田安門といわれ現在は市立高校内にあります。また徳川慶喜も屋敷を構え(後の葵ホテル)、東京に戻るまで一市民として過ごしました。

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2016年「県民の日」おもてなし体験イベント

 安倍川橋と防災物語

現在の静岡県にあたる地域は、1871(明治4)年の廃藩置県を経て、静岡県、浜松県、足柄県となり、1876(明治9)4月に足柄県が静岡県に統合、同年821日に静岡県と浜松県が統合、現在の静岡県は誕生しました。1996(平成8)年に静岡県の誕生日821日が「県民の日」として制定されました。今年は県誕生140周年!県内で数々イベントが行われています。

駿府ウエイブでは、おもてなし体験イベントとして「安倍川橋と防災物語」を企画しました。823()の午前930分に弥勒公園に集合、安倍川橋から静岡県地震防災センターまで散策しました。駿府ウエイブの会員によるガイドの案内を聞きながら、安倍川橋の由来を尋ね、弥勒・田町の歴史を探しました。

最後に、地震防災センターで地震災害の発生と備えについて学びました。当日は、台風が去り蒸し暑い日となりましたが、一般参加者とガイドの約60人が参加しイベントを楽しみました。

 

1.安倍川橋

初代安倍川橋(安水橋)は、1874(明治7)年に竣工、宮崎総五(駿府弥勒生れ)という一民間人が多額の私財を投じて架けた木製橋でした。長さ280(504m)、幅2(3.6m)で架設費用は8,250円と記録されています。通行料は、14厘、馬車一台45厘でした。1896(明治29)年に県に譲渡、その後通行料は廃止されました。弥勒側の橋のたもとには「宮崎総五頌徳碑」が、付近の弥勒公園には功績を称える「安倍川架橋の碑」が建てられています。




 

2代目安倍川橋(2代目安水橋)は、1903(明治36)年に架けられました。この橋も木造でしたが、桁は木鉄混合の構造でした。

 

 



 

3代目安倍川橋は、弓形を連ねる鋼鉄製のトラス構造で1923(大正12)年に完成。長さ270(486m)、幅4(7.2m)で現在に至っています。また、三代目の安倍川橋は、2005(平成17)年に土木学会選奨の土木遺産に選ばれました。


 写真・右上より初代安倍川橋(安水橋)、2代目安倍川(安水橋)、3代目安倍川橋
(国土交通省中部地方整備局静岡河川事務所及び土木学会資料より)
                         

                 現在の安倍川橋(橋のたもとで歴史の説明)

2.弥勒町

 江戸時代の地誌「駿河志料」には、現在の弥勒町一帯は、古くは安倍川の河原で『正保年間に開かれ江戸時代のはじめ慶長年間に、弥勒院という山伏が還俗して安倍川の河原で餠を売るよ うになった。この餠を「安倍川餠」という。これが「弥勒町」の由来となった』記されています。

弥勒の町には、近世以降の歴史の中で「由井正雪墓址碑」、昭和の初め小学4年の教科書に載った「安倍川の義夫の碑」、前述の宮崎総五を称える「頌徳の碑」と「安倍川架設の碑」をはじめ弥勒を語る多くの歴史の跡が残されています。(弥勒町・静岡市教育委員会より抜粋)

 

 安倍川架橋の碑      安倍川の義夫の碑

                         

                     弥勒の案内標示

3.静岡県地震防災センター

静岡市葵区駒形5丁目にある地震防災センターでは、大画面の映像で「東海地震の被害想定(地震と津波)」、津波に対する心得として「仙台空港の津波」について鑑賞しました。また、センター職員の方よりパネル展示を見ながら説明を受け、地震発生に対する備えの大切さ改めて感じました。

   

      センターの全景             センターの内部

                         

                          パネル展示と説明

「県民の日」にちなんで駿府ウエイブが企画したイベント「安倍川橋と防災物語」は、午前中で無事に終了しました。安倍川橋と弥勒町の歴史を思い起こし、また今後予想される東海地震の知識と対策について学びました。暑い中、ご参加ありがとうございました。またの参加をお待ちしています。
 
 
企画ウォーク「東海道・江尻~興津宿を歩こう」が開催されました。

平成28515()、駿府ウエイブ主催の企画ウォーク「東海道・江尻~興津宿を歩こう」が開催されました。当日は、晴天に恵まれ一般の参加者は146名、主催の駿府ウエイブはガイド11名とスタッフ4名の15名が参加しました。

午前9時30分頃より11班に分かれてJR清水駅を順次出発、①JR清水駅→②妙蓮寺→③一葉松→④旧国鉄袖師駅→➄東光寺→⑥静岡市埋蔵文化センター→⑦坐漁荘→⑧清見寺→⑨水口屋→⑩石塔寺跡→⑪身延道→⑫カンキツ研究興津拠点→⑬JR興津駅の約7.5Km、高低差10mの比較的平坦なコースを約6時間にわたりウォークしまた。また、途中の座魚荘と水口屋の内部では、専属のガイドさんよる15分程度のミニレクチャーがありました。駿府ウエイブ会員がガイドした主要な箇所をご紹介します。[写真左上・大正15年頃の江尻駅(現清水駅)] 

1 .JR清水駅~妙蓮寺

JR清水駅から妙蓮寺に向かう途中に、気になる蔵のある屋敷があります。江戸時代から続く大地主で周辺の小作からの年貢を集めて保管していた「山梨邸」です。安政元年(1854)の大地震で前の蔵が崩壊したため、翌年に立て直され、築161年が経過しているとのことです。敷地内には、土蔵2・石蔵2棟が地震や戦時中の空襲による火災にも耐え抜き、現在はその一部が残っており、自宅もそのころの建物とのことです。

   

       山梨邸                    妙蓮寺

妙蓮寺は、「応永34(1427)正月、久遠成院日親上人21歳の時、京都への法華経を広めることを目指して中山(千葉県)より上洛の旅に立った。当時、江尻の里に真言宗の巨刹の寺があり、そこを通りかかった日親上人はその住職、智善房と法論を戦わしてついに屈服させ、約束通り法華経をもととする寺に改宗した。日親上人は改めて開山となり『華生山 妙蓮寺』を称して身延山の門末に列し、智善房を2世に選び寺門運営を任せ、京都へと旅立って行った。」これが創立とのことです。それから580年、多くの返還を経てきましたが寺観を一新させ現在に至っています。

2.妙蓮寺~一葉松

妙蓮寺から東海道を東に向かいます。蜆川まで来たら川に沿って下流に進み東海道本線のガードをくぐり、左折すると一葉松があります。平安時代末期の悲恋の物語のある松が一葉松です。木曾義仲の一子、義高の死をこの地で知った彼を慕う公卿の娘・鶴姫が悲しみのあまり袖師が浦の海に身を投げてより、ここの松は一葉になったと伝えられています。現存する松は、この悲しい伝説の象徴として残されたものです。
       

       蜆川沿いに東海道本線をくぐる        一葉松 

3.一葉松から東光寺

一葉松から踏切を渡り東海道に戻ります。その踏切の東側が旧国鉄時代の袖師駅です。明治22年に開通した東海道本線に大正15年から夏場のみ臨時停車場が設置されることとなりました。昭和24年に常設駅としての昇格が内定しましたが、当時の国鉄内部の機構変更により取りやめとなりました。

 

           旧袖師駅跡              東光寺格子門

東光寺は、天文年間(153354)に開山、温仲和尚の創建後、一時衰退しましたが、慶長年間に至り一輪和尚がこれを中興しました。年代は不明ですが勅使が関東に下向の際、興津川が川止めとなり東光寺に宿泊することとなりましたが、当時、寺には門がなく勅使の門としての条件を欠くということで丸太を以って格子戸を作り、門扉としました。それ以来当寺の門は格子門となっています。 

4.静岡市埋蔵文化財センター

明治の元老井上馨の別邸「長者荘」の跡地に埋蔵文化財の整理・保管と活用を目的として建設され、平成16年に開館しました。当センターでは、静岡市内の遺跡の発掘調査の出土品の整理作業や報告書の作成作業などが行われています。1階の公開スペースで三池平古墳の副葬品、尾羽廃寺跡の出土品、巴川から出土の丸木舟などを見学しました。ここで昼食、庭園で一息入れて午後のウォーキング、坐漁荘に向け出発です。

 

         井上馨の銅像                  1F・展示スペース

5.坐漁荘

坐漁荘は元老であった西園寺公望公が大正8(1919)70歳の時に建てた別荘です。305坪の敷地に純木造数寄屋造り2階建て、晩年の20年を過ごしました。現在の建物は平成16年に復元されたもので本物は明治村に移植されました。

ここでは、2班ごとに専属のガイドさんによるミニレクチャーがありました。
   

        坐漁荘・海側より                  ミニレクチャーの様子

6.巨鼇山 清見寺

1300年程前、天武天皇の(672686)頃蝦夷に備えてここに関所が設けられ、清見ヶ関と呼ばれていました。この関所の鎮護の寺として仏堂が建立されたのが清見寺の始まりと言われています。大方丈には、徳川家康の人質時代に太原雪斎より学問の手ほどきを受けた家康手習いの間があります。また、江戸時代には朝鮮通信使が清見寺を訪れ宿泊しており、外交使節・朝鮮通信使ゆかりの関係資料が多数残されています。日本と韓国の民間団体がユネスコの「世界記憶遺産」に共同申請することが決まり、2017年の登録を目指しています。

  

       現在の清見寺       清見寺・海側より(手前は海岸)

7.脇本陣跡水口屋 

清見寺から東海道を東に、海側に元脇本陣の水口屋があります。水口屋初代は武田信玄の家臣で興津砦の主であり、武田家滅亡後は塩や魚を甲斐へ送る商人でした。江戸時代には、脇本陣、明治時代には政治家、皇室、財界人、小説家、画家などの各界著名人の泊まる高級旅館一碧楼水口屋となりました。昭和32年、静岡国体に訪れた天皇皇后両陛下も宿泊されています。昭和60年に400年続いた旅館を廃業し、現在は鈴与株式会社の研修センターとなっています。また、フェルケール博術館の別館、水口屋ギャラリーとして宿場に関する資料が展示されています。
 

     水口屋ギャラリーの外観      ミニレクチャーの様子

 8.石塔寺跡~カンキツ研究興津拠点~JR興津駅

石塔寺は廃寺となっていますが、身延山参詣や甲府へ向かう身延道の分岐点にあたります。

東海道との分岐点より身延道を北に、踏切を渡るとカンキツ研究興津拠点が見えてきます。明治35(1902)に農商務農事試験場園芸部として興津町に創立されました。現在は、独立法人化に伴い、農業技術研究機構果実研究所として再編されました。カンキツ類の保存・育成・栽培などの研究が行われています。甘夏みかん「清美」などの品種が生み出されました。また、「興津寒桜まつり」や正面から続くプラタナスの並木が象徴となっています。[写真右・プラタナス並木]

初代興津駅跡は、現在の興津駅の東側200mの地点にありました。明治22(1889)21日の開業時に現役設置が間に合わず仮駅が設置されました。現在の駅舎は明治2241日に開業しました。

 

        開業当時の興津駅            興津仮駅跡(興津駅の東側)
 

お疲れさまでした。いよいよ最終目的地の興津駅に到着です。約6時間に及ぶウォーキングでしたが楽しんでいただけたでしょうか。次回は、10月に予定されています。またのご参加をお待ちしております。

                 ウォーキングマップ 

 

     


企画ウォーク 「谷津山・山の辺の道」を散策してみませんか?

駿府ウエイブ主催の企画ウォーク「谷津山・山の辺の道」は、平成28327()に開催されました。参加者は160名、清水山公園に集合し、13班に分かれて順次出発しました。予定のコースは、約6Km①清水山公園をスタート→②元長寺→③沓谷霊園→④長源院→➄陸軍墓地→⑥蓮永寺→⑦龍雲寺→⑧谷津山再生エリア(昼食)→⑨宗長寺→⑩菩提樹院→⑪茶臼山・愛宕霊園周辺→⑫護国神社→⑬静岡ハリストス正教会→⑭安立寺→⑮清水寺の順に巡りました。

天候は晴れ、徐々に気温も上がりウォーキングにはうってつけの条件となりました。しかし、桜の名所・巴川排水の桜並木は写真(右上)の通り!桜の花を楽しみながらとはいきませんでしたが、春を感じる1日でした。この日巡った主要な箇所をご紹介します。

1.清水山公園

清水山公園は明治42(1909)12月に静岡県初の市立公園として開設されました。建設にあたっては静岡茶輸出の功労者大谷嘉兵衛(日本茶業中央会初代会長、横浜商工会議所会頭)が公園敷地と費用を寄付しました。平成6年には、市街地が見渡せる「清水の舞台」や「清水の滝」、水車小屋が設けられています。

   

大谷喜兵衛の像         清水の舞台と滝

2.元長寺(曹洞宗)

元長寺は永禄2(1559)、今川の重臣・朝比奈丹波守元長が創建した寺院です。この谷津山北麓一帯には朝比奈氏の所領と居舘がありました。朝比奈氏は藤枝市岡部の朝比奈川流域を本拠地とする名門豪族で 今川氏が駿河国守護となって以来譜代の重臣であり、三代に渡り掛川城主として今川氏領国の西の押さえとなりました。

3.沓谷霊園・長源院(曹洞宗)

沓谷霊園は、谷津山の一角、もと長源院の境内だった所で大正9(1920)、第4代静岡市長伴野欣平が社会福祉事業の一環で、静岡市初の宗教不問の市民霊園として開設したものです。

長源院(曹洞宗)は、長享2(1488)今川氏親の重臣朝比奈泰以の菩提寺として創建されました。朝比奈泰以は、氏親の命により駿府舘を改修し駿府城下町を整備したと言われる人物です。

4.蓮永寺(日蓮宗)

本寺は、日持上人の開創です。徳川御三家のうち紀州、水戸の祖師である頼宜、頼房の生母で家康の側室・お万の方によって再興されました。本堂は、静岡市最大級であり、境内にあるお万の方の供養塔は、生前の寛永11(1643)に当時の住職・日乾上人によって建立されたもので静岡市指定文化財です。ここには、勝海舟の母・信子と妹じゅんの合葬碑など著名人の墓もあります。また、明治当初アメリカより招かれた静岡学問所の教授を務めたE.W・クラークは、一時蓮永寺を宿舎としていました。

  

         本堂(正面)                お万の方の供養塔

5.龍雲寺(曹洞宗)

もとは真言宗でしたが、永禄8(1565)寿桂尼が開基となって、夫氏親の菩提寺・増善寺の和尚を招いて曹洞宗として再興され、寿桂尼の菩提寺になっています。寿桂尼は京都の公家・中御門家の娘で今川家七代氏親に嫁ぎ、九代義元をもうけ、氏親他界後は、氏輝・義元・十代氏真、三代の後見人として女戦国大名の異名をもっていました。

 午前の最後は、谷津山再生エリアで谷津山を里山として再生しようと活動されている谷津山再生協議会のご協力で、再生についてと桜のお話しなどミニ講座を開催していただきました。ルーペで花びらを観察し、ソメイヨシノと大島桜の違いなどを教えてもらいました。

講座の後は、昼食と休憩。午後は宗長寺からスタートです。

 

                    谷津山再生協議会によるミニ講座

6.宗長寺(日蓮宗)、菩提樹院(臨済宗)、茶臼山・愛宕霊園付近

愛宕霊園は、昭和15年の静岡大火で焼失した寺町から8ヶ寺、川辺から2ヶ寺、栄町から1ヶ寺の計11ケ寺院が、昭和20年以降、順次この地に移転されました。

宗長寺は、連歌師宗長が府中における屋敷(臨川庵)の跡を、宗長滅後に寺院としたものと伝えられています。

菩提樹院には、慶安4(1651)の慶安事件で自害した由比正雪の首塚があります。安倍川の川原でさらし首にされた後、縁者が寺町にあった菩提樹院に葬り五輪塔を建てて供養したそうです。

写真()は、茶臼山より見た富士山と大島桜(白い花)

7.静岡県護国神社

明治3211月に「共祭招魂社」として北番町に創設され、「静岡縣護国神社」と改称後、昭和1710月に現地に移転遷座されました。明治維新以来国事にたおれた静岡県出身者並びに縁故ある戦没軍人、軍属を神様としてお祀りしています。社殿は流れ造り銅板葺の荘厳な造りです。また、御手洗石は博多産で畳9畳半あり、全国最大のものです。

8.安立寺(日蓮宗)

もとは真言宗妙栄寺と言われていましたが、文明10(1478)日蓮宗に改宗されました。この寺には、「伊豆の長八」と並び称される漆喰彫刻壁画名人、森田鶴堂の「十六羅漢と天女」の壁画のほか「十二支額面12枚」、「清正公像」などがあります。両替町の「不去来庵」本堂扉の「金剛力士像」とともに現存する貴重なものです。

 

9.清水寺(真言宗)

清水寺は、「清水さん」と呼ばれ、京都東山の清水寺に似ていることから名付けられたと言われています。昔から観音霊場として親しまれ、永禄2(1559)に今川氏8代氏輝の遺命により、九代義元が重臣・朝比奈丹羽守元長に創建させた寺です。家康は、駿府城にいた頃しばしばこの寺に参詣し寺領を寄進、本堂と観音堂を建立、手観音菩薩を納め本尊としました。

   

      本堂(登録有形文化財)   鐘楼(登録有形文化財)と観音堂

 桜の花を楽しみながらの「谷津山・山の辺の道」を散策しませんか?のキャッチフレーズで、清水公園から始まった約4時間30分の❛市街地の里山・谷津山ぐるり一周ウォーク❜は清水寺で無事に終了しました。ご参加ありがとうございました。

桜の花には恵まれず残念でしたが、ウォーキング終了後の午後330分に静岡で桜の開花宣言がありました。

 

                ウォーキングマップ

       

東海道・府中宿を歩こう

3回さきがけ企画展(静岡市主催)

静岡時間旅行(タイムトラベル)~東海道に賑わいのルーツをさぐる~      

企画展は、224()から315()まで静岡市役所本館1回の静岡市民ギャラリーで開催されています。

駿府ウエイブは、関連イベントとして「東海道・府中宿を歩こう」を企画し、312()に開催されました。ウォーキングには91人が参加され、静岡市役所前を10時、1030分、11時、13時より10班に分かれて出発しました。

先ず、市役所本館で「さきがけ企画展」を観覧後、呉服町~札の辻町(現七間町)~両替町~上石町~下石町~寺町(現常磐町)~人宿町・梅屋町~新通(田尻屋)までの約2km2時間、東海道・府中宿をタイムトラベルしてみました。実際に歩いた主要な各所をご紹介します。(写真・右)第3回さきがけ企画展入口

1.静岡市役所・本館

現在の市庁舎は、江戸時代駿府奉行所の跡地に建てられました。昭和9(1934)に竣工し、平成8(1997)に国の登録有形文化財として、市の第一号となった建物です。構造・規模はRC造、地上4F塔屋付で、塔の部分は家康公の愛用品でスペイン国王フェリペ三世より贈られた洋時計をイメージし、駿府城の天守閣より高くならないよう考慮されたそうです。
 

     現在の市役所             昭和11年頃の市役所

2.静岡御用邸

明治33(1900)、現在の静岡市役所のある付近に完成。敷地面積7200坪、和風木造2階建ての建物でした。明治天皇は関西方面への行幸の帰路に宿泊されるなど在世中に17回ご駐泊になりました。また、昭和天皇は、昭和5(1920)に滞在され、市ではこの天皇行幸にちなんでこの通りを「御幸(みゆき)通り」と命名しました。
 

      現在の御用邸跡            大正時代の御用邸

3.呉服町

今川時代末期(1560年代)から江戸時代初期(1620年代)にかけて絹座・木綿座の長であった「友野宗善」が住んでいたことから「呉服町」と名付けられました。「友野家」は松本家、大黒屋と並ぶ町年寄りの一人として駿府の町方行政に大きな足跡を残しました。

4.札之辻町

「ふだのつじまち」の町名は、江戸時代この地に「高札場」があったことに由来します。高札場とは幕府の禁制、法令を庶民に徹底させるため、各地域の要所に設置された看板です。昭和20(1945)に札之辻町は七間町、呉服町、両替町の一部となりましたが、この地名は今も市民に親しまれています。
(写真・右)札之辻町・町名碑の前で

5.七間町

町名の由来には次の2説があります。①通りの幅が七間(13m)、②専売品7品目(米、油、魚、木綿など)の座があったため七間町(七件町)とも。駿府のメインストリートで東海道の道筋に面し、木工品、寄木細工、漆器の店が多く点在していました
(写真・左)東京に銀ぶら、七間町に七ぶらと言われた昭和初期の夜景。スズラン灯が美しい。

                    

     現在の七間町        昭和20年頃の七間町

6.両替町

町名は、慶長11(1607)この地に「銀座」が設けられ、徳川家康公が駿府城に入った際に、駿府城の蓄財として銀貨を鋳造する目的で設置された金・銀の両替商が置かれたことに由来します。慶長17年(1612)には江戸(現在の銀座)に移され、当時の町名は「新両替町」と呼ばれていました。東京銀座のルーツは駿府の両替町です。(写真・右)駿府銀座発祥の地

7.矢澤煉瓦

漆器店の倉庫として明治時代に竣工。静岡大火・昭和15(1940)、第二次世界大戦末期の昭和20(1945)6月の空襲により、市中心部は一面焼き野原化しましたが、「矢澤煉瓦蔵」は焼けずに残りました。現在は、景観重要構造物に指定されています。(写真・右下)中央の蔵は矢澤漆器店のもの。右側は市役所、左側は警察署です。
 

        現在の矢澤煉瓦蔵   瓦礫の山となった七間町12丁目付近

8.梅屋町

慶長の初めころ旅籠・梅屋勘兵衛という者が住んでいたことから町名となりました。先祖は、三河の出身で家康公の相手をしていた能楽の鳴り物師でしたが、後に旅籠「梅屋」をはじめました。この梅屋は慶長4(1651)幕府転覆を計った由比正雪の事件が起きた現場として知られています。

9.新通り2丁目

家康公が慶長4(‘1609)駿府城下町づくりを行った際、現在の本通筋に替えて、幅5(9m)の東海道の新しい道筋が100mも離れていない南側に設けられました。当時、江戸へ向かう行列の正面に見えたのは駿府城の巨大な天守閣。その向こうには日本一の富士山がそびえていました。江戸幕府初期の政情不安なこの時代、権力を見せつけ、反乱を防ぐ必要があったのではないかと考えられています。           (写真・右)新通り2丁目付近より駿府城方面を望む

今回は、新通りとときわ通りとの交差点を渡ったところで終了です。

「東海道・府中宿を歩こう」は、約2kmと比較的短いウォーキングでしたが、府中宿をタイムトラベルして東海道の賑わいのルーツを感じることができたでしょうか。またの参加をお待ちしています。


           

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