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企画報告」
「丸子 赤目ヶ谷から丸子宿、泉ヶ谷を歩こう」実施報告書

平成30年5月12日(土)、駿府ウエイブの企画ウォーク「丸子 赤目ヶ谷から丸子宿、泉ヶ谷を歩こう」が開催されました。晴天微風、気温19度、湿度59%という絶好のウォーク日和に恵まれて、84名の参加者が丸子赤目ヶ谷起樹天満宮前に集合しました。
                                   

今回参加料は500円。「いつもより高いね、上がったの?」という問いもありましたが、柴屋寺拝観料が含まれていることと、最後におみやげもあります、ということで納得して頂きました。ウォークは参加者が揃った班から順次出発、11班に分かれて新緑あふれる丸子路へ出発していきました。



今回は、明治維新150年ということで、旧幕臣で静岡の近代茶業発展の基礎に大きく寄与した多田元吉と、来年の今川義元公生誕500年を控え、今川家の歴史も広く知っていただくウォークを考えました。
                                 

そのため、コースの最後に、今川氏親の庇護を受けた当代一の連歌師・宗長の柴屋寺を拝観し、希望者には標高130mの丸子城もご案内しました。

                                 

ウォーク最初のポイント起樹天満宮では、鎌倉時代始め源頼朝・政子が上洛でここを通る際、梅の大木が道に倒れ、通行を妨げていましたが、一夜のうちに起き上がったという、御由緒から・・・、境内には多田元吉の顕彰碑があります。後ろは多田家の墓、元吉がインドから持ち帰ったお茶の原木が植えられています。隣は長源寺、そこから旧東海道を丸子宿へ向かいます。
                                 


その後のコースは、・二軒屋 ・丸子川沿い ・高札場 ・丁子屋・丸子宿 ・お七里役所跡 ・問屋場跡 ・本陣跡 ・脇本陣跡 ・宿に残る屋号・水神社 ※水神社で折り返し
・丸子川沿い自転車道 ・細川幽斎歌碑 ・泉ヶ谷

  と廻って、正午前駿府匠宿に到着。引き続き丸子城へ登ってから昼食をとる班、柴屋寺へ向かう班、まず昼食をとってから丸子城へ行く班、と様々でした。 今回、昼食に泉ヶ谷公民館を使わせて頂きました。新茶もご馳走になり、ありがとうございました。
                               

 予定通りの14時30分、最終班が柴屋寺拝観を終えて、記念写真で終了。最後に、「茶あめ」のおみやげがあり、皆様笑顔で帰宅の途についていかれました。
「やっぱ、丸子路っていいですね!」、「説明して頂くと全然違います。本当に面白かった。」
「丸子城、興味がわきました!」等々、のお声を頂きました。


「山岡鉄舟ゆかりの鉄舟寺を訪ねて久能寺観音道~久能街道を歩こう」実施報告
                                       
3月3日(土)、企画ウォーク「山岡鉄舟ゆかりの鉄舟寺を訪ねて 久能寺観音道~久能街道を歩こう」が開催されました  鉄舟寺では、2月7日にご講演頂いた、静岡山岡鉄舟会事務局長の若杉昌敬さんと、事務局次長の原啓二さんに山岡鉄舟についてのガイドをして頂きました。
晴天無風の天気に恵まれて、106名の参加者が静岡鉄道狐ヶ崎駅に集合、11班に分かれて、9時から順次出発しました。




コースは①久能観音道道標 ②誓願寺 ③楞厳院 ④玉泉寺 ⑤船越堤公園 ⑥伊勢神明宮  ⑦大日如来堂 ⑧能満寺 ⑨八坂神社 ⑩言いなり地蔵 ⑪補陀落山鉄舟寺(昼食) ⑫稲荷神社 ⑬梅蔭禅寺  ⑭次郎長生家 ⑮壮士の墓 ⑯船宿末廣、という約6.5㎞でした。

久能寺観音道の道標
久能寺観音道の道標は、安永7年(1778)、妙音寺村(不二見地区)の若者が寄進して建立されたものです。
久能寺観音道は、道標から、有東坂・今泉・船越・矢部・妙音寺・久能寺(現・鉄舟寺)に通じる道のことです。

延命山誓願寺(せいがんじ)(有東坂)
 開基は室町時代。本尊は願王地蔵菩薩。三保半島、富士山の眺めは素晴らしく、秋田の民謡「祝奉節」の一節に誓願寺が唄われています。
♪ 見上げて見れば 富士の山ナエー
見降ろせば誓願寺ナエー 三保の松原ナヨエー
この唄は、佐竹の殿様が秋田へお国替えの時、殿様の機嫌を直すためにつくられたと伝えられている。

補陀山楞厳院(ほださん りょうごんいん)(今泉)
弘治元年(1555)は、楞厳院創建の年・・開基は当時今川の家臣・岡部忠兵衛貞綱は 道白禅師を開山に招き、今までの戦乱で亡くなられた人々を弔う為に、有東坂・今泉の地に建立した。また岡部忠兵衛貞綱は、今川家滅亡後、武田家に使え土屋の姓を与えられた。最盛期には末寺13ケ寺を持つ大寺院であり、本堂は貞享5年(1668)の建立で、清水区内でも古い建物の一つです。

船越堤・船越堤公園(北矢部)
 有度山東北麓一帯は田畑への水が少なく、溜池が多く造られた。代表的なものが船越堤の夫池・婦池で、慶長年間(1595~1614)に出来たという。現在は桜の名所・船越堤公園として親しまれています。

見海山能満寺・矢部氏居館跡(南矢部)
 元は真言宗「定金剛院」という寺でしたが、応永5年(1398)日順上人によって日蓮宗に改宗、見海山能満寺として開山した。現本堂は天明2年(1782)の建立です。能満寺の西側の台地が矢部氏の館跡と伝わっています

補陀洛山鉄舟寺〔久能寺〕(村松)
 元は久能山にあった駿河の古刹・久能寺。戦国期武田氏が駿河に侵攻し久能山を城としたため現在地に移された。明治になって荒廃していたが、山岡鉄舟が再興を発願し、清水の魚商・芝野栄七翁が協力して、臨済宗鉄舟寺として明治43年(1910)中興した。
 国宝の法華経(久能寺経)、県指定文化財の大般若経、蘭陵王舞楽面、千手観音像、市指定文化財の久能寺縁起、薄墨の笛、木像菩薩坐像(鎌倉時代、快慶作)など、仏像・古文書等多数の文化財が所蔵されています。ウォーク一行はここでお弁当を食べました。

壮士の墓
明治元年9月、江戸を脱走し北へ向かった榎本武揚率いる幕府軍艦8隻は千葉沖で暴風雨に遭遇。帆柱を失った「咸臨丸」は清水港へ漂着、修理中に官軍の飛竜丸など3隻が現れ攻撃を受けた。咸臨丸は府中藩の説得に応じ降伏の旗を掲げていたが、全員が殺された。死体は海に捨てられ漂ったが、官軍のお咎めを恐れて誰も手を出さなかった。死体は傷み腐臭で漁もできず困っている人々のため、清水次郎長は夜間に7人の遺体を回収、「死ねば仏様。官軍も賊軍もねぇ」と、向島に埋葬した。「壮士の墓」の墓碑銘は山岡鉄舟の命名で、鉄舟の揮毫を刻んだ石塔が建っている。

今回は、少し距離の長いウォークでしたが絶好の好天に恵まれ、有度山東麓の小高い道を南進しながら、所々で富士山の姿を見ることが出来ました。ウォークを楽しんだ参加者の皆さん、そしてガイド共々疲れた様子もなく、船宿末廣にゴールしました。皆さん、お疲れさまでした。


瀬名氏と梶原一族ゆかりの地を訪ねて「梶原山・一本松公園へ登ろう」氏と梶原一族ゆかりの地を訪ねて「梶原山・一本松公園へ登ろう」


平成30年2月3日(土)、駿府ウエイブ主催の企画ウォーク「瀬名氏と梶原一族ゆかりの地を訪ねて『梶原山・一本松公園へ登ろう』」が開催されました。当日は30日の雨、雪の影響が心配されましたが、晴天、無風に恵まれ、応募された4歳から84歳までの59名の方々が参加されました。瀬名のリンク西奈に集合、
6班に分かれ9時30分から順次出発しましました。(リンク西奈、受付時写真・右)


最初に瀬名館と光鏡院をご案内しました。
(光鏡院写真・左下)




光鏡院は、瀬名一族の祖である今川陸奥守氏一秀の菩提寺で、長享2年(1488)恵雲が開山した曹洞宗の寺である。文明8年(1476)今川6代当主義忠が不慮の死をとげ、今川一族の間で竜王丸(今川氏親)派と小鹿範満派に分かれて争いが起ると、一秀は竜王丸を補佐するため遠江から瀬名に移り住み、瀬名氏と改名し、以来、一秀は瀬名一族の祖となった。通称「瀬名館」は、瀬名集落のほぼ中央にあって、瀬名一秀を祖として氏貞、氏俊、氏詮四代の居館跡であったことが「今川記」に記されている。遺構は認められないが、今川直系を補佐する一族として瀬名氏の勢力は大きかったと推測される。瀬名砦の所在は不明であるが、光鏡院の裏山とも考えられ、武田信玄の駿河侵攻の際に落城したことが記録に見られる。
光鏡院を過ぎるとここからが梶原山への登りとなりました。(梶原山登坂写真・右上)

瀬名古墳群は、梶原山(牛谷山)の尾根(標高約50~140m)に築かれた古墳7基(前方後円墳・円墳・方墳)で構成。古墳時代中期・後期・末期(5~7世紀)、この地域(西奈地区)を治めた豪族が埋葬された首長の墓と考えられています。
鎌倉時代の武将・梶原景時は、治承4年(1180)、大庭景親と共に源頼朝と石橋山で戦ったが、密かに頼朝に通じて危急を救い、のち頼朝に仕え信任され、壇ノ浦の合戦では義経と共に平家を倒し、鎌倉幕府の要職にありました。正治元年(1199)頼朝が死亡し、頼家が2代将軍となると、景時は御家人と対立、失脚。正治2年、西の所領である京都に向かった。幕府方は、各地の豪族に討伐を指令し、一行が清見関にさしかかった時、駿河の入江氏・吉川氏・渋川氏・船越氏・飯田氏・矢部氏等と合戦となり、梶原一族は、奮戦したが、景時らは裏山に逃れる。梶原山山頂近くの岩間から清水が滴り出ていたので景時父子は、その水で鬢のほつれをなおして梶原山頂に上り、景時は、「もののふのかくごもかかる時にこそ 心の知らぬ名のみをしけれ」の辞世の歌をしたためて自刃した。

今でも、そこを「鬢洗い水」あるいは「鬢水」と言っています。(鬢水の泉写真・右上)
生憎北東方面は雲がかかり富士山の姿は見ることができませんでしたが、無風状態の梶原山山頂でのお弁当は程よい疲労感と静岡市内、日本平、三保の松原、駿河湾などの絶景もごちそうにしておいしいランチになりました。

一本松公園(帆掛山)
大内の裏山の頂上が一本松公園。ここには、大人3人でかかえるくらいの松の大木が生えていたので一本松と言われていた。昔、駿河湾に入る船の目印となるほど、遠くから見えた。昭和5年当時の一本松の写真は現存していて実に立派な木でしたが、何らかの理由(落雷、松食虫、火災によるもの等はっきりしない)により枯れてしまいました。


鷲峰山 霊山寺
寺伝では天平勝宝元年(749)行基菩薩の創建と伝えられる。駿河七観音の一寺で、本尊は千手観音菩薩(大内観音)である。久能寺(鉄舟寺)、平沢寺と並ぶ観音信仰の霊場である。雨乞観音としても信仰されている。

仁王門(国指定重要文化財)は、永正13年(1516)2月に建立されたもので、室町末期のものとして雄大な風格をしめし柱は、中央に膨らみを持たせ上部がやや細くしている。また通路上部の蟇股は、日本に三つしかないと言う特異な芸風を示している。

本堂(観音堂)は市指定有形文化財。現在の建物は宝暦6年(1756)に再建されたものである。堂内には本尊の千手観音像、上段左右に二十八部衆と風神雷新像が配置されている。外陣正面に黄檗宗万福寺5世黄泉和尚筆の「悲願海」の額を掲げ、天井中央に墨絵の龍と天女が描かれている。天井龍図(市指定有形文化財)は「文政2年(1819)3月吉辰山梨靖謹画」の落款があり、庵原三山の1人、山梨鶴山(やまなしかくざん)39才の作である

鐘楼は間口、奥行9尺四方である。二層入母屋造、瓦葺。明治21年再建。梵鐘は元禄4年(1691)に山麓で鋳造されたものであったが、第二次大戦の時に供出された。

(霊山寺写真 ・右上)


梶原堂
正治2年(1200)梶原一族がこの地で滅びた後、牛ヶ谷(梶原山)の山上に小堂を建て、一族の霊を祀った。その百数十年後、堂宇を山麓に移し一寺を建立した。この寺は梶原景時の法名「龍泉院殿梶勝原公大居士」に因んで梶原山龍泉寺と名づけられた。明治4年(1871)、寺は荒廃により廃寺となったが、梶原堂と墳墓はわずかに残され、明治25年(1892)付近の有志により堂宇が修築された。

現在、堂内には梶原景時と源頼朝の位牌、如意輪観音像、毘沙門天像が祀られ、堂の脇には梶原一族を供養する五輪塔数基がある。梶原堂は市の文化財に指定されている。

(梶原堂写真・右上)

約5時間のウォーキングお疲れさまでした。次回は、3月3日に「久能寺観音道~久能街道を歩こう」を実施します。またのご参加をお待ちしています








駿府九十六ヶ町 町名碑巡り パート2

駿府ウエイブ主催の町名碑巡りの第二弾、「駿府九十六ヶ町 町名碑巡り・パート2」が平成291123日(木・祝)に開催されました。パート2の集合場所は、静岡浅間神社。午前840分から受付を開始し、9時より順次出発していきました。スタート時は、前日の雨が残る天候となりましたが、次第に晴れ間も見えるほどに回復しました。

主な経路は、静岡浅間神社から、御器屋町、宮ケ崎町、馬場町、柚木町、土太夫町、上桶屋町、茶町、上魚町、研屋町、西寺町大鋸町、新通2丁目など11ヵ所の町名碑を巡り、西見付(川越町)を経て、目的地の弥勒公園・安倍川東岸までの約4㎞、3時間の行程でした。一般の参加者は121名、駿府ウエイブのガイド13名でご案内しました。

パート2では、スタート地点の静岡浅間神社境内及び今川氏との関連、また山田長政の出生地とされる馬場町ではシャム(現在のタイ)での活躍などを加えガイドしていきました。ここでは、その一部をご紹介します。(写真:静岡浅間神社・集合時の様子)

【静岡浅間神社】

   静岡浅間神社は、南アルプスから続く賎機山の南端に位置し、安倍川、藁科川が合流し、静岡平野に出る扇状地の「扇頂」に位置しています。

神部神社(約2100年前)・浅間神社・(約1100年前)・大歳御祖神社(約1700年前)の三社を総称して、静岡浅間神社と称され、静岡の総氏神さま、駿河の総社として広く信仰されています。

現在の社殿群は、徳川幕府が総力をあげ文化元年(1804)より60年の歳月と約10万両の巨費を投じて建造されたもので絢爛豪華な建造物群が26棟も残っており、花鳥霊獣の彫刻類は繊細を極めています。静岡市内に残る数少ない江戸時代の木造建築物群を後世に遺すため、前回の修理から40年を経て、現在20年ほどをかけて漆の塗り直しを中心に、金具を始め部材の修理等、改修工事がなされています。(写真:静岡浅間神社・舞殿前)

《今川氏との関連》

今川家は足利一門において名門とされ、足利将軍家の親族としての家格を有し、室町将軍家から御一家として遇された吉良家の分家にあたります。吉良家の分家である今川家は守護や侍所所司を務めました。今川範国(初代)は足利尊氏に従い、各地で戦功を挙げ、駿河・遠江の守護になったことが、のちに戦国大名にまで成長する出発点でした。

今川範国(初代)は駿河守護として駿河に初めて“お国入り”したとき、駿河総社である神部神社に参拝した折、そこで聞いた巫女の託宣(神が人に乗り移り神の意志を伝えること)により、「赤鳥」が今川氏の旗印に確定することとなりました。

                                                

   引両紋「丸に二つ引」            赤鳥紋(馬印・旗印)  

【馬場町】

駿府城大手門の北西に位置する町名の由来は,徳川家康駿府在城のとき浅間前に馬場があったことに由来します。地内に寛永年間シャム国で活躍した山田長政旧宅があります。

《山田長政出生の地》

山田長政(天正18年(1590年)~ 寛永7年(1630年))は、江戸時代前期にシャム(現在のタイ)の日本人町を中心に東南アジアで活躍した人物です。

出生は馬場町とされ父は紺屋を営む津国屋、母は藁科村の出身の寺尾某の娘。沼津藩主・大久保忠佐に仕え、駕籠かきをしていましたが、その後1612年に駿府の商人たちが手配した朱印船で長崎から台湾を経てシャム(タイ)に渡りました。後に、日本人傭兵隊に加わり、頭角を現しアユタヤ郊外の日本人町の頭領となります。商人の才覚と指揮官としての頭角をあらわし、日タイの貿易のみならず、近隣諸国にも商船を送り、ヨーロッパの巨大交易企業との熾烈な経済戦争に勝ち続けました。またアユタヤ国王の護衛兵としても活躍し、日本人義勇兵を率いて外敵と戦い、数々の武勲をうちたてました。これらの活躍に国王は、王室内での最高の官職を与えました。長政は立身出世を喜び、故郷の浅間神社に「戦艦図絵馬」を奉納しました。(写真:山田長政像前)

【茶町】

町名は、安倍山中の産物である茶の商を中心としたことに由来します。茶町周辺は、今も茶問屋が軒を並べ、「お茶静岡」の伝統を支えています。寛永12年(16351130日、2丁目の大橋治右衛門宅からの出火は城中に延焼し,御殿・天守閣・櫓・多聞などが全焼し大惨事となりました。

                

茶町:町名碑

【上魚町】

上魚町は、家康公の大御所時代には、中央通りを挟んで南側に後藤庄三郎光次の宅地が置かれていました。光次が江戸に移るまでは、ここを金座とし「駿河小判」と呼ばれる金貨が鋳造されていました。また、北側には駿府城や久能山東照宮を造営した大工の棟梁中井正清も住んでいました。

「駿国雑誌」によれば、家康公の在城の時、下魚町から魚商人を移動させたとされ、町の南側を魚問屋、北側には青物問屋が軒を連ね、「流通センター」のような役割を果たしていました。大正11年(1922)に道幅が8間に拡幅され、市内で初めて車道と歩道が分離された道路となり、昭和3年(1928)には昭和天皇即位を記念して金座町となりました。

           

上魚町:町名碑           研屋町:町名碑

【研屋町】

町名は、慶長年間徳川家康とともに伏見から移ってきた研師が宅地を賜り御用の刀剣を磨研したことに由来します。研ぎの御用を担っていたことから、研屋町はほとんどの公的な負担を免除されていました。研屋町は安倍川の扇状地で砂礫層のため地盤もよく、清く澄んだ水が湧き出るほどで刀剣の研磨に適していたと言われています。明治維新後の廃刀令のため、研摩師の多くは転職し、商人・職人など百十戸ほどの町になりました。

【新通2丁目】

家康公が慶長4年(1609)駿府城下町づくりを行った際、現在の本通筋に替えて、幅5間(約9m)の東海道の新しい道筋が100メートルも離れていない南側に設けられました。新しい通りに沿って町並みが形作られ「新通」という城下町のひとつが生まれました。ルート変更には西国の外様大名もひれ伏す視覚効果があったと伝えられています。当時、江戸へ向かう行列の新通りの正面に見えたのは駿府城の巨大な天守閣。その向こうには日本一の富士山がそびえていました。江戸幕府初期のまだ政情不安なこの時代、権力を見せつけ、反乱を未然に防ぐ必要もあったのではないかと考えられています。

         

           現在の新通り                 江戸幕府初期の新通り(絵図)

【西見付跡(川越町)】

宿場の入口出口に見付という場所があり、桝形を有する街道を行き来する旅人の見張場の役目をしていました。江戸側にあるものを「江戸方見附」又は「東見附」、京側にあるものを「上方(京方)見附」又は「西見附」と呼んでいました。西見付は、安倍川右岸の川越町に設けられ、竹垣根を石垣の上に組み、土手で囲む堅固な造りとなっていました。

【弥勒公園付近】

江戸時代の地誌「駿河志料」には、現在の弥勒町一帯は、古くは安倍川の河原で『正保年間に開かれ江戸時代のはじめ慶長年間に、弥勒院という山伏が還俗して安倍川の河原で餠を売るようになった。この餠を「安倍川餠」という。これが「弥勒町」の由来となった』記されています。 

弥勒の町には、近世以降の歴史の中で「由井正雪墓址碑」、昭和の初め小学4年の教科書に載った「安倍川義夫の碑」、安倍川に安水橋を架けた宮崎総五を称える「頌徳の碑」と「安倍川架橋の碑」をはじめ弥勒を語る多くの歴史の跡が残されています。(弥勒町・静岡市教育委員会より抜粋)

     

安倍川架橋の碑            安倍川もちの「せきべや」前

「駿府九十六ヶ町 町名碑巡り パート2」は、スタート時の雨も晴れ間の見えるほどに回復し、無事に終了することが出来ました。パート1では19ヶ所、今回のパート2では11ヶ所、全部で30ヶ所の町名碑を巡りました。市街地には32ヶ所設置されていますが、呉服町と上石町以外のすべてを巡ったことになります。今川時代に礎がつくられ、徳川時代に整備された街並みを歩いて駿府の町の歴史散歩を楽しめたでしょうか。お疲れさまでした。

次回の企画ウオークは、来年の23日(土)…瀬名氏と梶原一族ゆかりの地を訪ねて「梶原山・一本松公園へ登ろう」です。またのご参加をお待ちしています。

 

ウォーキングマップ

           
     


駿府九十六ヶ町 町名碑巡り  パート1

 
成29年10月14日(土)駿府ウエイブ主催の
  「駿府九十六ヶ町 町名碑巡り・パート1」が開催されました。今回は町名の由来を記した町名碑巡り   のパート1。府中宿の東の入口で、見付のあった  「下横田町」から高札場のあった「札の辻町」まで の4Km、約3時間かけて町名碑を巡りました。
  徳川家康が整備したと言われる、駿府九十六ヶ町。駿府城を中心に碁盤目状に整備された当時の町の形は、現在の静岡市街地の基礎となりました。
   また、150年前の慶応3年(18671014日  は、徳川慶喜が将軍職を返上した「(大政奉還)節目の日です。コース内には  大政奉還から明治維新にかけての旧跡《西郷・山岡会見の碑、浮月楼、宝台院  》のご案内も併せて企画されました。
 町名碑巡りは、午前9時に清水山公園に集合。当日は、朝方の雨にもかかわら  ず120名の方々が参加されました。雨は、一時的に強く降ることもありました  が、しだいに回復。駿府ウエイブのガイドのもと16班に分かれて町名碑巡りを  楽しみました。ここでは、ガイドしたコースと主要な地点をご紹介します。  (写真右:府中宿;石碑)

  【下横田町】
 
駿府城の東部に位置し,東海道府中宿の一画を構成する東海道を西上して駿府城下に  入る入り口にあたり,枡形をもった東見附がありました。枡形を構成する石垣は高さ2尺の  土手の上に3尺の石垣を積み,その頂部は屋根形,底部の幅は9尺あったそうです(駿国  雑志)。当町には立場茶屋があり,西に進むと猿屋町・院内町を経て上横田町に至り,さら  にその先の伝馬町までを狭義の府中宿と称したと言われています。

【上・下伝馬町】
 
東海道府中宿の一画に位置し、町名は伝馬の機能が設けられたことに由来します。江戸時代中期には、2軒の本陣と脇本陣、問屋場、貫目改所、旅籠43軒がありました。享和3年(1803)の伝馬町の家数100・竈数145・人口445,本陣・脇本陣のほか旅籠が30軒あったそうです。この伝馬町が様変わりしたのは、明治22年(1889)の東海道本線の開通でした。旅人の宿泊が激減。転職を余儀なくされたそうです。
(写真右:上・下伝馬町;町名碑)


【西郷・山岡会見の碑】
(大政奉還から明治維新にかけての旧跡)






慶応4年(1868)、江戸に向け駿府に進軍した有栖川宮熾仁親王を大総督とする東征軍の参謀西郷隆盛と徳川幕府の軍事最高責任者勝海舟の命を受けた幕臣山岡鉄太郎(後の鉄舟)の会見が、同年3月9日に、ここ伝馬町の松崎屋源兵衛宅で行われました。この会見において、15代将軍徳川慶喜の処遇を始め、江戸城の明け渡し、徳川幕府の軍艦・武器の引渡しなどが合意され、5日後の3月14日、江戸・三田の薩摩藩邸で行われた勝海舟と西郷隆盛との会談により最終的に決定され、江戸城の無血開城が実現しました。明治維新史の中でも特筆すべき会談に位置付けられています。(写真右:西郷・山岡会見の碑)


【浮月楼】(大政奉還から明治維新にかけての旧跡)
浮月楼の角に「徳川慶喜公屋敷跡」の小さな石柱があります。この料亭一帯は、駿府(紺屋町)代官所の跡です。明治2年(1869)10月、謹慎をとかれた徳川慶喜公は宝台院よりこの代官屋敷に移り住みました。以後政治にはいっさいかかわらず、ときおり旧幕臣が訪れるなかで、狩猟やカメラ・油絵・自転車などの多彩な趣味に熱中しました。屋敷南側に広がる回遊式の池は、慶喜公が作庭師小川治兵衛に命じて改修させた今に残る名園です。慶喜公は明治21年(1888)、東海道本線が屋敷のすぐ南側に建設されると、西草深の新邸宅に移られました。

 


【紺屋町】

  駿府城下の南東に位置する町名は慶長年間に染物師が居住したことに由来します。(駿河志料)
寛永9年(1632)から置かれた駿府城守衛の役目をもつ加番の屋敷は紺屋町加番・町口加番などと呼ばれましたが、慶安4年(1651)駿府城横内門前に移されました。寛文2年(1662)駿河の幕府領は駿府町奉行所支配から代官所支配となり,役屋敷が当町に設置され駿河(紺屋町)代官所と呼ばれ,米蔵も置かれました。


【宝台院】

 宝台院は徳川2代将軍秀忠(徳川家康第3子)、松平忠吉(徳川家康第4子)の生母西郷の局の菩提寺。家康公没後は2代将軍秀忠公が母の菩提寺を盛り立て寛永5年(1628)、大伽藍を建て、大法要を営み、この法要に勅使が派遣され、西郷の局は従一位を追贈され、「宝台院殿一品大夫人」と戒名が改められました。また、寺名も金米山宝台院龍泉寺と「宝台院」が加わりました。 そしてこの時、江戸増上寺、駿府宝台院は徳川家の菩提寺となり、江戸城入りの時は十万石の格式を与えられ駿河国の触頭(ふれがしら)となりました。
                             
(大政奉還から明治維新にかけての旧跡)
将軍徳川慶喜は将軍職を返上し、恭順の意を表して、上野から水戸に移って謹慎していましたが,徳川家が駿府に移されることが決まると身柄を駿府に移しました。慶応4年(1868)7月19日に水戸を出発、銚子から旧幕府の軍艦・蟠竜丸(ばんりゅうまる)に乗船、7月23日清水港に上陸、その日の夕方宝台院に入りました。清水港からは護衛に松岡萬(よろず)の率いる精鋭隊々士50人が付きました。また、新門辰五郎も駿府に来て、宝台院近くの常光寺に住みました。明治2年(1869)9月28日に謹慎が解かれ、10月5日に代官屋敷(現・浮月楼)に移るまでの1年2ヶ月間、宝台院で起居され謹慎の日々を送りました。
(徳川慶喜公伝)



【寺町】

「寺町」の町名は、徳川家康公が駿府城下町を整備した際、駿府周辺の寺々をこの地に集合させたことに由来します。当時西国の勢力を強く意識していたので、城下町のはずれに寺を集めることで、敵の攻撃に備え、有事の際には寺の建物や墓石などを軍事上に利用しようとした考えがあったと言われています。当時は、現在の新通り1丁目から常盤公園に掛けて、駿河町通りをはさんだ常盤公園側に13の寺院、市役所側には町屋が並んでいました。昭和20年の戦災後、善然寺、感応寺を除くすべての寺院が沓谷の花園霊苑などに移転しました。(写真右上:寺町;町名碑)

【両替町】
 町名は、慶長11年(1607)この地に「銀座」設けられ、徳川家康公が駿府城に入った際に,駿府城の蓄財としての銀貨を鋳造する目的で設置されました。金・銀の両替商が置かれたことに由来します。当時の両替町6ヶ町の内2丁目に「座役所」が、1~4丁目に銀座役人の役宅があったとされています。駿府の銀座は、慶長6年(1601)に 京都・伏見に設けられたのに次いで2番目に設置されました。慶長17年(1612)には江戸(現在の銀座)へ移され、当時の町名は「新両替町」と呼ばれていました。東京銀座の
ルーツは駿府の両替町です。

【札ノ辻町】
「ふだのつじまち」の町名は、江戸時代この地に「高札場」があったことに由来します。「高札場」とは幕府の禁制、法令を庶民に徹底させるため、各地域の要所に設置された掲示板です。札の辻の高札場は、現在の七間町と呉服町通りが交差する駿府城寄りの道路中央に立てられていました。(明治7年廃止)札の辻界隈は当時から商家が軒を連ね、多くの人々で賑わっていたようです。昭和20年(1945)札の辻町は七間町、呉服町、両替町の一部となりましたが「札の辻」の地名は今も市民に親しまれています。地内には駿府城御用達のお菓子屋を始め、古い由緒ある店がありました。
 

雨がのこる清水山公園をスタートし、約4㎞・約3時間の町名碑巡りでした。また、今回は大政奉還から150年を記念して、旧跡3か所も同時にご案内しました。
現在、静岡市内には32か所の町名碑が設置されています。今回はパート1として下横田町から札ノ辻町までの19か所の町名碑を巡りました。次回11月23日(木・祝)のパート2では残り13か所を巡ります。次回のご参加もお待ちしています。

         
         

               

                                       
駿府城まるわかり探検隊

駿府ウエイブが主催する《夏休み自由研究お手伝い企画》「駿府城まるわかり探検隊」が、82日(水)に開催されました。静岡県庁別館21階富士山展望ロビーに午前9時に集合し、7班に分かれて順次出発しました。主なルートは、①静岡県庁別館21階富士山展望ロビー(駿府城二の丸②坤櫓→③天守台発掘調査現場→④紅葉山庭園→➄東御門・巽櫓の順にボランティアガイドの案内で駿府城を探検しました。昨日の雨が若干残りましたが、夏としては比較的すごしやすい一日でした。一般の参加者は、37名。夏休み期間中でもあり、小中学生の参加が目立ちました。(写真右:県庁別館を出発する「駿府城まるわかり探検隊」)

【静岡県庁別館21階富士山展望ロビー】

午前9時頃の天候は、一時霧雨でしたが地上100mの富士山展望ロビーから、静岡市内と駿府城公園内を眺望することができました。家康公の作った町割りや、これから探検する駿府城二の丸を見下ろしながら説明を受け、いよいよ駿府城の探検にスタートです。

※晴れていると、富士山、駿河湾、南アルプス等が一望できます。

 

   富士山展望ロビーでガイド     富士山展望ロビーから見た駿府公園

【坤櫓】

坤櫓は、駿府城二の丸の南西のすみに建つ櫓です。江戸時代には、十二支であらわした坤(未申)の方位に位置したことから「坤櫓」と呼ばれています。外観は、高さが14mで屋根が二層ですが、内部は三階構造となっています。内部の部屋の一つ「記憶の間」は、床の一部に強化ガラスが採用され、櫓下部の土台や基礎部分が見られるようになっています。坤櫓は、安政元年(1854年)の安政の地震で崩壊しましたが、平成26年(2014年)に160年ぶりに復元されました。

           

                  坤櫓の前にて

【天守台発掘現場】

駿府城公園再整備において、かつて駿府城の天守台があった跡地の整備に向けて、天守台の大きさや残存状況などのデータを得るため、平成288月から発掘調査が開始されました。昨年度の調査では、120年ぶりに天守台西側の石垣が姿を現しました。今年度は、天守台南辺、北辺が調査されています。さらに来年度まで3年かけて天守台と本丸堀、4年目には今川期の遺構へと調査が進められて行くそうです。

 

    今年度発掘調査の天守台北辺         天守台位置図

【紅葉山庭園】

紅葉山庭園は、江戸時代には本丸御殿あったといわれています。現在の紅葉山庭園は、平成13年(200111月に完成した回遊式庭園です。駿河の国の名勝を織り込んだ四つの庭、「里の庭」、「海の庭」、「山里の庭」、「山の庭」を中心に四季折々の表情を味わうことができます。庭園内には、日本建築の伝統美とおもむきのある数寄屋造りの茶室「雲海」と五畳半の小間「静月庵」があります。「雲海」では茶の湯をはじめ、生け花など多目的に、「静月庵」では本格的な手前を楽しむことができます。

探検隊は、庭園内の四阿でひと休みし、園内を散策しました。

          

    四阿でひと休み             庭園内を散策

【東御門・巽櫓】

東御門は、高麗門・櫓門・多門櫓からなる枡形門です。重臣たちの出入口として利用されていました。建物は、寛永12年(1635年)に焼失し、寛永15年(1638年)に再建されましたが、安政の地震により崩壊しました。現在の建物は、平成8年(1996年)に復元されました。

巽櫓は、駿府城二の丸の南東角に設けられた三層二重の隅櫓です。戦闘時には戦闘の拠点となり望楼・敵への攻撃、武器の保管などの役目をもっていました。また、十二支であらわした巽(辰已)の方向に位置することから「巽櫓」と呼ばれています。東御門と同様に安政の地震で崩壊しました。現在の建物は、135年を経た平成元年(1989年)に復元されました。

     

      御門・巽櫓前にて         東御門内部でガイド  

3時間の駿府城の探検、お疲れさまでした。《夏休み自由研究手伝い企画》「駿府城まるわかり探検隊」、お役に立てたでしょうか?小中学生の皆さん、まだまだ夏休みは続きます。あらためて家康公の築いた駿府城を自由研究のテーマにしてみたらいかがですか。

次回の企画は、1014日(土)の「駿府九十六ヶ町 町名碑巡り」です。またのご参加お待ちしております。

【静岡県庁21階富士山展望ロビー】

利用料金:富士山展望ロビーは無料

休館日:毎月第三土曜日とその翌日の日曜日及び1229日~13

但し、平成29819日(土)及び820日(日)は特別解放

このため、平成29826(土)及び827(日)が休館日

(毎年元旦は朝630分~8時まで特別解放)

利用時間:

平日

4月~12月)830分~2000

 (1月~3月) 830分~1800

土・日曜日、休日

4月~12月)1000分~2000

  (1月~3月) 1000分~1800

※ふじのくに 「静岡県公式ホームページ」でご確認ください。




企画ウォーク…東海道・宇津ノ谷峠を歩こう

平成29521日(日)に駿府ウエイブ主催の企画ウォーク「東海道・宇津ノ谷峠を歩こう」が開催されました。当日は晴天に恵まれ、一般より応募された74名の方々が参加されました。宇津ノ谷・道の駅(下り線)に集合、10班に分かれて9時より順次出発しました。

ガイドした主なコースは、①宇津ノ谷・道の駅(下り線)→②立場・間の宿→③慶龍寺・延命地蔵→④お羽織屋→➄旧東海道→⑥雁山の墓→⑦峠の地蔵堂→⑧ひげ題目碑→⑨蔦の細道上り口→⑩木和田川堰堤群(昼食)→⑪坂下地蔵堂・羅経記碑→⑫大正のトンネル→⑬明治のトンネルの順で、約5.5Km、昼食を含めて4時間のウォーキングでした。

宇津ノ谷は、平安の路「蔦の細道」、戦国末期からの路「旧東海道」、トンネルも、「明治」「大正」「昭和」「平成」と四本通っている道の博物館です。新緑の5月、自然を満喫しながら平安時代までのタイムトラベルを楽しめたことと思います。

 道の駅(下り線)を出て、「蔦の細道」の入り口を過ぎると左側に白壁の倉庫のような和風建築が見えます。これが「宇津ノ谷トンネル管理所(通称)」です。トンネル内の照明、排気等の電気制御機能と火災に備えた消火用の貯水機能があります。小学校のプールと同じくらいの450tの水が蓄えられています。ここから国道1号線を陸橋で渡ります。

【宇津ノ谷集落 (立場・間の宿)】   

宇津ノ谷の集落は、江戸時代には「立場」と呼ばれていました。

「立場」とは江戸時代、駕籠かきが駕籠を止め、杖を立てて休憩し、馬方が馬を繋いで立てておいたところからその名前が付いたそうです。通行する旅人のための休憩所で、立場茶屋が置かれ、菓子、果物、お茶などが提供されました。立場には茶屋以外にも旅の備品を売る店も開かれ、次第に1つの集落が形成されていきました。それが「間の宿」です。幕府は「宿場」を保護するため、ここでの宿泊は禁止しました。

(写真右上:宇津ノ谷上の集落付近)

【慶龍寺と延命地蔵】

宇津ノ谷峠の集落の中ほど、街道から少し入ったところに、十団子で知られる曹洞宗の寺、慶龍寺があります。弘法大師の作と伝えられている延命地蔵尊が鎮守に、十一面観音菩薩が本尊に祀られています。延命地蔵尊は、最初からこの地に祀られていたわけでありません。旧東海道にあった峠下の「地蔵堂」に安置されていましたが、明治のトンネルが完成し、峠を通る人が減ったこと、峠の上では参詣に不便だと言う理由で慶龍寺に移されました。

十団子は上新粉で作った直径約1cmの団子を十個ずつ糸で通し、それを九本集めて数珠のような形で吊るされています。今でも十団子は、厄除けのお守りとして、地蔵縁日の823日・24日に境内で売られています。(写真右上:慶龍寺)

厄除けの十団子には、こんな伝説があります。昔、宇津ノ谷峠に旅人を食う鬼が現れ、在原業平の祈願により、地蔵菩薩が旅僧に姿を変えて鬼と対決しました。旅僧が人間の姿に化けた鬼に正体を現わせと言うと、大鬼に変身。次に、小さくなれるかと言うと、鬼は小さな玉となり旅僧の手に乗りました。旅僧は持っていた杖で、その玉を砕き、十粒に砕かれた鬼を飲み込み、それからは鬼の災いはなくなったということです。それ以後、道中守護のために十団子が作られるようになったそうです。

【お羽織屋】  

15903月、豊臣秀吉が北条氏と戦うため、小田原に進軍した際、この地にさしかかり、石川家の軒下に吊るしてあった馬の沓に目をとめて使い古した自分の沓と取り替えようとしました。ところが、主人は三脚分しか差し出さなかったので、「馬の脚は4本なのにどういうことだ」と尋ねました。すると「戦いに行く前に四という数字は縁起がよくありません。残る一脚は戦いに勝ってお帰りになる時に差し上げます」と答えたのです。その年の7月、戦いに勝っての帰路、再び石川家に寄った秀吉は、褒美として自分の着ていた「陣羽織」を脱いで主人に与えたのです。江戸時代には家康も訪れ、「茶碗」を贈っています。参勤交代で多くの大名がこの道を行き来した。秀吉の立身出世にあやかり、徳川の威信に敬意を表したかったのでしょう、みんな「陣羽織」を触っていったといいます。(写真右上:お羽織屋付近)

【旧東海道】 

 旧東海道は天正18年(1590)、豊臣秀吉が小田原の北條氏討伐に行く時に、17万とも言われる大軍を通すために拓いた道と言われています。その後、徳川家康公により官道とされ、江戸時代を通じて東海道として使われ、大名行列や朝鮮通信使なども通った道です。

【地蔵堂跡】  

地蔵堂跡には、土止めの石垣があります。復元された石垣かと思われましたが、土砂崩れのため埋没されていたものを、近年掘り出したものと記されています。平成12年の発掘調査で、地蔵堂跡地から2m四方と5m四方の二つの建物跡が発見されました。前者が大破する前、後者が永禄16年(1703年)に再建された地蔵堂跡と思われます。地蔵は明治42,建物と共に「慶龍寺」に下ろしたところ、翌年の土砂崩れで跡地は土砂に埋まってしまいました。

 

       地蔵堂跡                   髭題目の碑前

【髭題目の碑跡】

日蓮宗の信仰が盛んな県東部地区ではごく普通に見られる石塔ですが、この辺りでは割合珍しいものです。近くでは興津の身延道入口に見られます。「南無妙法蓮華経」の文字が独特の髯題目と呼ばれる書体で刻まれている石塔です。

【羅径記碑跡】 

「羅径記」という碑があります。「羅」は蔦、「径」は小路を意味します。文学的に価値の高い「蔦の細道」が荒廃し、昔の面影がなくなったことを嘆いた碑です。この碑は、文政18年(1830)年に駿府の第31代代官「羽倉簡堂」が建立したものです。「簡堂」は、駿府の代官を9年間勤めていますが、歌人でもありました。文字は当時「江戸時代の三筆」と言われた「市川米庵」が書いています。道路整備における2度の移転を経て、現在は、坂下地蔵堂境内にあります。

【木和田川砂防堰堤(兜堰堤)】  

これは、明治43年の豪雨による山腹崩壊を契機に、県が建設した石造空積砂防堰堤群であり、下流から1号、2号の順に8号堰堤まで配置されています。立面形状から「兜堰堤」と呼ばれており、最大規模は2号堰堤で堤長が25mあります。明治期の構造形式を踏襲しつつ、台形越流部という近代的技術が加味されています。現在は周囲の緑が回復し、石造構造物も一体となって、自然景観とよく馴染んでいます。国道1号線から8号提まで1.7㎞ある。自然景観との馴染みの良さから、平成146月にこれらの全てが国の登録有形文化財に登録されました。

【蔦の細道】  

7世紀の律令時代に交通制度「駅伝制」ができますが、蔦の細道は、「伝路」として登場します。地域間の自然発生的な道だっただろうとされています。その後、「駅路」であり30度の急勾配のある日本坂超えは衰退し、「伝路」であった蔦の細道は、東西交通の主役となってくるのです。

蔦の細道の名前の由来は、在原業平の書いた「伊勢物語」の一節『行き行きて駿河にいたりぬ。宇津山にいたりて、わが入らんとする路はいと暗う細きに、蔦かずらはしげり、・・・』からきていると言われています。この道が世に広く知られるようになったのは、伊勢物語(平安前期の文学作品)に登場してからです。(写真右上:蔦の細道・岡部側上り口)

※駅伝制では「駅路」と「伝路」とがありました。(「駅路」=都と地方の国の役所と結ぶ官道、「伝路」=地方の国の役所と地方の中の都の役所を結ぶ官道を指します。)

 

「つたの細道公園」で約30分の休憩と昼食。午後は坂下地蔵堂からスタートです。

 

              「つたの細道公園」にて昼食

【坂下地蔵堂 (鼻取地蔵・稲刈地蔵)】

坂下地蔵には次のような伝説があります。

 農作業を終えたお百姓が家に帰る途中、連れていた牛が動かなくなってしまいました。困っていると一人の子供が現れ、牛の鼻を取って、楽々と曳いていったそうです。目を離したすきに子供の姿が見えなくなったので、足跡を辿ると地蔵堂の中に消えていったそうです。動かない牛の鼻を取って助けてくれたのはお地蔵さんだということで、以降このお地蔵さんを「鼻取地蔵」と呼ぶようになりました。

また、この地域では毎年稲刈りが終わると伊勢参りに行くことになっていました。老父母と3人暮らしの若者の家は稲刈りがはかどらず、諦めていました。他の人たちが伊勢参りに行く日に若者が稲田に行くと稲刈りは済んでおり、若者は伊勢に旅立つことができました。実は、稲刈りをしてくれたのは坂下のお地蔵さんだったのです。以来、願い事がある時は鎌をお供えするようになり、稲刈地蔵とも呼んでいます。(写真右上:坂下地蔵堂)

【大正のトンネル】  

明治の終わり頃から登場した自動車は急激に増加し、政府は道路改良計画に着手し始めます。宇津ノ谷峠にも新しい車の通れる道が必要とされ、準備が始まりました。

建設工事は、大正15年に着工され、昭和5年に開通しました。トンネルの銘板は、岡部口は「昭和5年」、宇津ノ谷口は「昭和30年」と書かれています。昭和29年9月に襲来した台風14号で、宇津ノ谷口が大崩壊し、トラック5台が埋る大災害が起こり、国道は2ヶ月間もストップしました。銘板の日付けが違うのは、この時の工事のためです。中間付近には完成後補強した部分とそれまでのレンガの壁面が見られる。

(写真右上:大正のトンネル岡部側口)

【明治のトンネル】

明治7年、安倍川に橋が架けられると丸子~静岡間の輸送経路が完成し、物流が活発になると、峠越えの道よりもトンネルへのニーズが高まってきました。安倍川橋を完成させた静岡市弥勒の「宮崎総五」は、旧岡部町の杉山喜平氏らに働きかけ、他の6人と結社し、明治7年に着工、2年後の明治9年に日本で初めての有料トンネルを完成させました。総工事費は約24,800(1/38,300円は、官より支給)15万人もの人たちがトンネル工事にたずさわりました。地盤の悪い静岡側から20mは青石づくり、それ以外は角材を組み合わせた構造で内部は真っ暗、照明用に50個ものカンテラが必要でした。また、トンネルはピタリと合わず、「くの字」に曲がったり、段差が出来たりしました。有料トンネルの通行料は、大人2厘、子供1厘でしたが、明治22年に東海道線が開通すると旅人が極端に減少し、採算が合わず大人6厘、子供3厘に値上げされました。明治32年には、カンテラの失火で火災が発生し、内部の骨組みの崩落により通行ができなくなりました。 明治36年に修復が開始され、翌年には赤レンガで覆いつくされた一直線のトンネルに変貌を遂げました。その後、平成8年に行われた2度目の改修では、トンネルの補強や照明がつけられ、平成9年に現役のトンネルとして日本で初めて国の登録有形文化財となりました。

 

     明治のトンネル静岡側口         明治のトンネル内部

 

4時間のウォーキングお疲れさまでした。次回は、8月に「県民の日・ウォーク」を1011月には「駿府96ヶ町・ウォーク」などを予定しています。またのご参加をお待ちしています。

 



東海道~志みづ道を歩こう

駿府ウエイブ主催の「東海道~志みづ道を歩こう」が、晴天に恵まれた318()に開催されました。午前9時に静岡鉄道狐ヶ崎駅に集合、10班に分かれ順次、狐ヶ崎駅をスタート、ゴールの海野孝三郎顕彰碑を目指して出発しました。一般の参加者は103名、駿府ウエイブ会員のガイドのもと東海道~志みづ道の約5.5Kmのウォーキングを楽しみました。(写真右上:静鉄狐ヶ崎駅)

コースは、狐ヶ崎駅→聖一国師堂→吉川八幡神社→谷津沢川水路橋→追分洋かん本舗→志みづ道道標→上清水八幡神社→百華山禅叢寺→下清水八幡神社→湊橋・甲州廻米置場跡→清水次郎長の船宿「末廣」→海野孝三郎顕彰碑でした。今回、ガイドをした主要な箇所を以下にご紹介します。ところで、「志みづ道」とは…江戸時代、清水湊と東海道を結ぶ輸送路として、廻船問屋と馬方、牛方たちにより駿府に物資が運搬された道を言います。現在は民家が密集してはいますが昔の面影をとどめています。

【狐ヶ崎駅(静岡鉄道)】   

狐ヶ崎駅は、静岡市民にとって思い入れのある駅といえるでしょう。沿線開発に力を入れ始めた静岡鉄道(当時は静岡電気鉄道)は、昭和2年、この駅のすぐ南側に広大な狐ヶ崎遊園地を開業し、それに合わせて駅名を上原駅から狐ヶ崎駅に改名しました。遊園地はおよそ1万坪の敷地に、ボートのある池、食堂、動物園、運動施設などがあり、子供連れの家族が1日楽しめる、当時としては最先端の施設でした。開業から半年で93千人もの客が訪れたそうです。

狐ヶ崎遊園地の開業に当たって、遊園地の楽しさが伝わるような歌を作ろうということになりました。作詞・北原白秋、作曲・町田嘉章による『ちゃっきり節』がその歌です。当時は企業がPRのために歌を使用すること自体が皆無で、ちゃっきり節は日本で最初のPRソングといわれています。歌は30番まである壮大なものでした。 (写真右上:狐ヶ崎遊園地の風景  静岡鉄道発行「静岡鉄道70年の歩み」より)

【聖一国師堂】

聖一国師(12021280)は、私たち郷土静岡市栃沢に生まれ、静岡茶の始祖として知られています。師は、日本と中国の著名な寺で修行を積んだのち京都五山の一つ東福寺の開山となり、僧侶として最高の栄誉である「国師」の号を日本で最初に贈られた高僧です。

 

聖一国師堂前にて

国師の功績は多大で、中国(当時の宋)から、茶の種子や麺類、人形などの技術を持ち帰り我が国に伝えて、日本の産業と文化の進歩のために大いに貢献しました。今日、お茶の静岡と云われる静岡茶の起源は国師が中国から持ち帰った茶の実を静岡市の足久保に植えたのが始まりです。1954(昭和29年)聖一国師が初めて仏門に入った久能寺に近い、ここ狐ヶ崎(当時の狐ヶ崎遊園地)の御堂に、国師の高徳を称え、偉大な功績に感謝して後世にその遺徳を伝えようとして国師真像を安置して開眼の儀を行いました。以来、この御堂を聖一国師堂と呼び毎年春秋の二回供養・法要を行ってその遺徳を偲んでいます。

【吉川八幡神社(旧鳥居)】

清水区吉川は、鎌倉武士として活躍した吉川氏発祥の地です。吉川氏の初代「経義」は、寿永2年(1183)源頼朝より吉川の地を賜り、2代「友兼」は、正治2年(1200)梶原一族を「狐ヶ崎の戦」で打ち破りました。その功績によって源頼家は3代「朝経」に播磨国福井庄(姫路市)を与えました。4代「経光」は、承久の乱(1221)の戦功により安芸国大朝庄(おおあさのしょう)の地頭職に任命され、5代「経高」は、正和2年(1313)この地を離れ、本拠を駿河の吉川から安芸国大朝庄に移しました。

当神社は、2代「友兼」がこの地の地頭職に任命されたのを記念して、鎌倉の鶴岡八幡宮からご分霊を勧請したと伝えられています。

吉川本家が周防の国岩国藩の大名になってからは、参勤交代の時には藩主は必ず駕籠を降りて供を具して参拝したそうです。尚、2代友兼が梶原景茂を討った刀剣「狐ヶ崎丸」は、国宝として岩国市の「吉川史料館」にあります。

平成15年(20031月、静岡市地域登録文化財第一号として登録された旧鳥居は安政元年(1854)の大地震によって倒壊、埋没していたものを、十数年前に発掘したものです。周防の国岩国藩(岩国市)の第七代藩主、吉川経綸(つねとも)が寛政元年(1789)に奉納し、およそ400字の漢文が石刻されています。柱には吉川氏と梶原氏の戦いや承久の乱の功績、村民への感謝、神のご加護への熱い思いが彫られています。(写真右上:吉川八幡神社「旧鳥居」)

【谷津沢川水路橋】

この橋は、鉄道線路の上を谷津沢川が流れ、そのまた上に歩道があるという日本でも珍しい橋の一つです。かつて、狐ヶ崎駅があるあたり(吉川・上原)は丘陵地として地続きでしたが、明治19年(1886)頃の東海道本線敷設の際、丘陵地を掘って東西に切り通しをつくり、そこに線路を敷きました。そこには谷津沢川が横断するように南北に流れていますが、川を線路が分断してしまうので、線路の上に、水を流す橋『谷津沢川水路橋』を架けました。東海道本線の開通は国の威信をかけての大事業でしたが、この水路橋は下流域農地の灌漑用水を確保し、当時の主要産業だった農業を守るために必要不可欠な橋だったのです。(写真右上:谷津沢川水路橋)

 

国鉄のSL300型電車 静岡鉄道発行「静岡鉄道70年の歩み」より

【追分羊かん本舗(追分二丁目)】

『昔、追分に住む府川家の主人が箱根の山中で、旅先で病の為に苦しんでいた明の僧と出会い、心温かく介抱し、やがて病が癒えた僧は大変喜んで、小豆のあつもの作りの秘法を伝授して立ち去った。』それが追分羊かん製法のいわれと言われています。江戸時代後半の寛政のころ、府川家の先祖 直右衛門は、三保、駒越、元追分でサトウキビ栽培、砂糖製造を広めました。そして、精糖のかたわら、この砂糖で蒸し羊かんを作り、東海道の名物として販売しました。十五代将軍徳川慶喜公も、清水湊へ行く途中、たびたび府川家に立ち寄って、休んでいったといいます。府川家には慶喜公の書が残されています。(写真右上:追分洋かん本舗)

【志みづ道 道標(追分二丁目)】

旧東海道と志みづ道の分岐点(追分)に建てられている御影石の道標があります。もとは、道路の反対側に建てられていました。道標は江戸時代の元禄10年(1697)前後に建立されたものとみられています。正面に「南無妙法蓮華経」、両側に「是より志ミづ道」と「七面大明神守護」、裏面に建立者「実相院法入日中 法春日陽寿位」と記されています。建立した谷口一族は日蓮宗を厚く信仰した京都の豪商で、東海道を中心に街道筋109ヶ所に道標を建てたことで有名です。道標は静岡市地域登録文化財になっています。(写真右上:志みづ道 道標)

【清水湊と廻船問屋】

清水湊において大きな役割をはたしていたのが廻船問屋(諸問屋)でした。元和元年(1615)、大阪夏の陣で徳川方に味方し、食料・兵器輸送に携わった清水湊の商人、船舶所有者、土地の有力者たち42軒にその功労として、徳川家康から特別の権利が与えられました。株仲間としての廻船問屋の誕生です。

廻船問屋は特権として安倍川から富士川までの問屋営業、廻船業の独占を与えられました。主な取扱い商品は米を中心に、塩、たばこ、干鰯、樽荷(酒・醤油・酢)などでした。一方で、御前崎から伊豆半島下田までの間の海難救助と処理、相州・浦賀役所の無断通過船の取調べなど今で言えば「海上保安庁」的な義務的役目や「御船御用(駿河小早による幕府の御用役)」も務めていました。廻船問屋の株売買は認められたが新たな許可はありませんでした。従って問屋名義に異動はありましたが、その数は当初の42軒から増えることなく、天保13年(1842)の38軒まで殆ど変化はありませんでした。なお、文化10年(1813)は39軒でしたが、その町別問屋数は、本町が17軒で最も多く、上2丁目が10軒、上1丁目4件、袋町・新魚町・本町で計7軒、美濃輪町1軒となっていました。江戸時代後期にはいると天保の改革(特権の停止)、安政の大地震、周辺商人の台頭などで問屋の多くが転廃業せざるをえなくなり、明治維新(明治6年(187310月静岡県知事指令)により特権的問屋制度に終止符が打たれました。現在、この廻船問屋をルーツとするのは鈴与(播磨屋与平)、天野回漕店(天野屋九右衛門)、青木トランス(間瀬卯兵衛)などです。

 

土蔵・石蔵群(本町)

 

【清水次郎長の船宿「末廣」】

船宿「末廣」は、明治19年次郎長が晩年、清水波止場に開業した船宿で、経営するとともに自宅とし、74歳で生涯を閉じるまで過ごしました。次郎長には資金がなかったため、山岡鉄舟や県知事など地元の有力者の協力により開業しました。「末廣」は、山岡鉄舟が命名し、明治19年11月に開業披露の祝賀会を開いたそうです。「末廣」は、関東、関西からの商人が宿泊し、また日本海軍の軍艦が入港するようになったため、士官達の定宿となり繁盛したといわれています。当時、横浜と清水を結ぶ海上1日半の航路には静隆社の「静岡丸」や「第二福沢丸」などの蒸気船が就航しており、船客達はこの船宿を江尻や静岡などへの中継点としていました。

現在の「末廣」は、鶴舞町の住宅で転用されていた「末廣」の大黒柱や鴨居、欄間などの部材を使って復元されています。「末廣」は、晩年の次郎長を垣間みることができ、清水港の振興に尽力した姿を知る貴重な資源として、市が一億一千万円かけて、実際にあった場所(日の出町、マリンパーク付近)から数百メートル離れた場所に、150年後、平成13年に復元しました。(写真右上:清水次郎長の船宿「末廣」)

 

波止場の船宿末廣付近 「清水開港100年史」より

【海野孝三郎顕彰碑】

海野孝三郎は、駿河国安倍郡井川村の生まれで、生家は徳川家康以来、将軍家の御用茶を管理した井川村きっての旧家でした。海野孝三郎は、静岡産のお茶を清水港から輸出する目的で、茶の再製工場をつくったり、また誘致したり、輸出会社を設置し販路拡大のためアメリカやヨーロッパ・アジアの各地を視察してまわり、清水港を茶の一大輸出拠点とすべく奔走しました。明治39(1906)長年の努力が実り、アメリカ向けの茶を日本郵船の神奈川丸が清水に寄港してアメリカ向けの茶の輸出が開始されました。清水港からの直輸出により横浜や神戸にあった外国商社が、次々と静岡市に集まりました。茶の産地とし、その輸出港としての清水港が大いに発展することとなりました。その功績を称え、昭和12年清水港が見渡される日本平山頂に顕彰碑が建てられましたが、平成の時代になって茶の直輸出に悲願をかけた清水港の一角に移設されました。(写真右上:海野孝三郎顕彰碑前)

晴天に恵まれた「東海道~志みず道を歩こう」は、無事に終了しました。お疲れさまでした。江戸時代に廻船問屋が立ち並んだ清水湊。明治以降はお茶の輸出港としての役割を担い、国際貿易港として発展した清水港をタイムスリップすることができたかと思います。次回の企画ウォークは「東海道・宇津ノ谷峠を歩こう」です。またのご参加をお待ちしています。



「東海道 薩峠」を歩こう~開催されました

平成2924()、《「富士山の日おもてなし体験イベント》として、駿府ウエイブの主催・清水区観光ボランティアの会の協力を得て『「東海道 薩埵峠」を歩こう』が開催されました。興津駅に午前9時に集合、11班に分かれて順次興津駅をスタート、晴天に恵まれて薩埵峠の風光明媚な風景を楽しみながら由比駅まで約6.7kmのウォーキングを楽しみました。一般参加者は119名。道中は、駿府ウエイブのガイドの他、途中の興津川・川越場跡、薩埵峠、由比地すべりセンターでは由比観光ボランティアガイドの説明を聞くことができました。

(写真右上 :  由比薩埵嶺(保永堂版) 静岡市東海道広重美術館蔵)

コースは、①興津駅→②一里塚跡(江戸・日本橋より41番目)→③身延道道標→④宗像神社→➄興津川・川越場跡→⑥海岸寺→⑦白髪神社→⑧薩埵峠→⑨一里塚跡(40番目)→⑩西倉沢→⑪望嶽亭藤屋→⑫名主の館・小池邸→⑬由比地すべり管理センター→⑭由比駅でした。ウォーキングの途中でガイドした主要な箇所をご紹介します。

【身延道道標・石塔寺(せきとうじ)跡】  

鎌倉期にはこの道は開かれてといわれ、戦国時代には駿河進攻をもくろむ武田信玄により整備され、駿河と甲斐を結ぶ交易路でした。江戸時代初期には身延山久遠寺への信仰の道として確立されました。道標は身延道の分岐点です。

石塔寺は廃寺となりました。門前にあった題目と道標、七面山常夜燈が現存しています。 髯題目の碑は高さ3m、「南無妙法蓮華経」と刻まれ、側面には承応3年(1654)と彫られています。(写真右 : 身延道の分岐点)

【宗像神社】  

古くは「廬原神社(いほはらじんじゃ)」ともいわれていました。祭礼731日創建年代は不詳、筑紫の宗像大社の神を勧請したともいわれ、御祭神はスサノオノミコトの子の3人の女神(宗像三神)で航海安全の神さまです。三神の一人奥津島姫命が興津の地名の由来と言われています。宗像の神は江戸時代に弁天信仰と同化し、境内の森は「女体の森」、池は「弁天池」といわれています。 地元の漁師は、神社の森や松の木を目印にしていました。

(宗像三女神)

奥津島比売命 オキツシマヒメノミコト、狭依姫命 サヨリヒメノミコト、多岐津比売命 タギツヒメノミコトの3柱です。

宗像三神を祀る神社では中心に市杵嶋姫命 シキネヒメノミコトが祀られていることが多いのですが、ここでは奥津比売命が中心に祀られています。(写真下: 宗像神社)

【興津川・川越遺跡】

   旅人は両岸にあった川会所で「越し札」を買い、蓮台または人足の肩車で川を越しました。

「越し札」はその日の水深によって下記の如く値が違い、蓮台越しの場合は札4枚を要しました。深さが4尺5寸(150cm)を越すといわゆる川止めとなりました。但し、冬期(10月5日から3月5日まで)は仮橋が架かり無賃で渡ることができました。川越しの人足は興津川で36人が常備されており、大通行があると250人以上が動員されました。               ※明治7(1875)に浦安橋が完成し、川渡しの制度は廃止されました。


【観音山海岸寺】(曹洞宗宗徳院の末寺)

  古くから「海岸菴」と呼ばれてきましたが、現在では「観音山海岸寺と言います。本寺の什宝として注目されるのは、「海岸菴」と書かれた縦20㎝、横50㎝の寺号額です。

 この額の左端に「朝鮮国紫峰」と書かれていますが、「紫峰」とは朝鮮通信使の写字官「金天秀」の号です。写字官とは書の名手として派遣された朝鮮通信使の一役職です。

 海岸寺に通信使が訪れたのは、寛永13年(1636)12月1日の復路でした。

  江戸の将軍家からの帰途、清見寺に休息する目的で峠越えをして来たところ、折からの出水で興津川の川止めにあい、しばらく逗留しますが、その時一行の中にいた「紫峰」が木片に「海岸菴」と書いたものです。

   もう1つの什宝としては、「百体観音像」があります。百体観音とは、西国33

ケ所、坂東33ケ所、それに秩父34ケ所の観音で、この百観音にお参りすればご利益があると言われています。

   境内に入ってすぐ右手には庚申塔があります。村のお年寄りによると、この庚申塔は「失せ物に効く」とのことです。物がなくなって困ったら、左縄をなって石塔に巻いて願を掛けてお参りすると「失せ物」が出てくるそうです。


【薩  峠】

(薩とは) 

「薩」とは、仏教の専門用語「菩提薩埵」を略したもので、「薩」には“命のあるすべての生き物”という意味があります。文冶元年(1185)の大波の時、海岸に打ち寄せられた「地蔵菩薩」を漁民が山上に祀ったことから、それまで「磐城山」と呼んでいた山を「薩山」と呼ぶようになった、と言われています。

(薩峠の四道)

  地蔵道峠の少し由比側に「さったぢぞうミち」の刻字のある道標がありますが、蒲原・由比宿から薩地蔵へ参る参詣者が通ったみちで、現在の薩峠の駐車場から興津方面に向かう車が通れる道です。

  上道

天和2年(1682)の5代将軍綱吉の代替わり祝賀の朝鮮通信使の来朝の時に、「中道」も大波の危険があるということで、「中道」の上を通る道を開いたのがこの道です。

  中道

明暦元年(1655)、4代将軍家綱の将軍襲封を祝う朝鮮通信使一行の通行に際し、下道では波の危険があるということで、山道を切り開いて造った道で、山腹を経てへ至る道です。

  下道

峠の絶壁の海岸沿いを、波が引いた瞬間に通り抜けなければならない山下の難所で、「親知らず、子知らず」と呼ばれ、古来から利用されてきた道です。

※その後、朝鮮通信使のために開削された薩埵峠は、一般の人も利用する道となりますが、1854年の安政の大地震による薩埵峠下の海岸線の隆起により、海沿いの道が通れるようになり、今の峠道は徐々に廃れていきました。

【薩峠展望台と東屋、薩峠説明板】
    山側に展望台があり、台にあがると歌川広重描く東海道由井薩嶺の浮世絵

と説明板があります。晴れていれば、素晴らしい富士が見えるところです。現代

も、そして昔もここは絶景の地でありました。広重の浮世絵「由比薩嶺」にも

描かれているところです。

「ここは山水の風景真妙して海道一の勝地なり」『東海道名所図会』

【望嶽亭藤屋】

その昔、脇本陣、茶屋として多くの文人墨客で賑わったところでして、あわび・さざえの壺焼きなどの磯料理が名物の茶屋で、離れ座敷からの富士山の眺めが素晴らしいので「望嶽亭」と称するようになりました。

慶応437日、薩峠で官軍に追われた山岡鉄舟は、峠を西に下ることが出来ずに、西倉沢に下りて来ました。追ってがそこまで来ているので逃げる術はありません。

鉄舟は望嶽亭に逃げ込みました。訳を聞いた時の主人は鉄舟を蔵屋敷で漁師に変装させ、隠し階段から海岸へ逃し、舟で清水まで送り清水次郎長にその身柄を託したそうです。

次郎長は若い頃、望嶽亭の主人に大変世話になっていたので、恩返しの積りで鉄舟を温かくもてなし、 39日になると次郎長は子分と共に自らも護衛役と道案内を買って出ます。

そして、警戒の厳しい東海道を避けて、久能街道から駿府に入り、西郷隆盛の旅宿である伝馬町の松崎屋源兵衛方に鉄舟を送り込んだものと推察されます。

鉄舟が残していった最新式フランス製十連発のピストルが望嶽亭にありますが、これには「鉄舟が漁師に変装して望嶽亭から逃げ出す時に置いていった。」という説と「鉄舟が西郷との会見を終え、西郷から帰りの通行手形をもらって江戸へ帰る途中に置いていった」という2説があるようです。(写真右上 : 望嶽亭藤屋での説明)

 

【間の宿「西倉沢」】

西倉沢村は由比宿と興津宿の中間にあり、薩峠を控えた間の宿として繁盛しました。宿と宿の間にある村を「間の村」と言いますが、これらの村の中には旅人の休憩の為の茶屋を設けたり、給仕女を置いて旅篭屋まがいの行為を営む所もあり、それらを「間の宿」と言いました。

この「間の宿」の立場茶屋では湯茶や水菓子・団子・酒肴をつけた食膳も供され、旅人にとっては重宝でした。しかし、茶屋の繁盛は給仕女の売春化を促し、これに対して旅篭屋からの苦情があったことから、幕府は延宝6年(1678)従来の茶屋以外の新規営業を禁じ、給仕女の数を1軒に2人までとしました。(写真右上 : 西倉沢の街並み)

その衣装も布・木綿に制限し、営業時間も明け六ツ(午前6時)から暮れ六ツ(午後6時)までとして、それ以後客を置くことを禁じるという措置をとりました。しかし効果は無く旅篭屋まがいの行為はいっこうに衰えず、旅篭屋の飯盛女と茶屋の給仕女とが宿はずれで客引き合戦をする有様でした。文政7年(1824)には、参勤の諸大名が立場茶屋などで宿泊・休憩することを禁じ、本陣を保護しました。

西倉沢村には本陣・脇本陣ほか5、6軒の茶屋があり、本陣は「川島勘兵衛」脇本陣は「藤屋七郎兵衛」「灘野屋太右衛門」が勤め、幕末には「柏屋幸七」が灘野屋に代わって勤めたといいます。もとより、本陣・脇本陣の呼称は正式に認められていませんでしたが、興津宿や由比宿よりも景色が良かったので大名の中には休息する者も多かったようです。

【名主の館「小池邸」】

 小池邸は明治期に建てられましたが、現在は由比町によって改修・修復され休憩処として利用されています。

低い軒の瓦葺き、くぐり戸付きの大戸や格子、ナマコ壁など、当時のこの地域の民家の面影を良く残しています。邸内には小池家に伝わる古文書や高札などが展示してあり、庭園は池の石組みなどはそのままに、使われていた庭石や灯籠などを利用して「水琴窟」が新たに設けられています。平成10年、国の登録有形文化財に指定されました。

【由比地すべり管理センター】 寺尾571-1 

開館:10:0012:0013:0016:00 休館日:火・木曜日、12/291/3 入場無料

  平成12年(2000)に設置されました。由比地区の地すべりの状況とその防止施設について、模型やパネル展示でわかりやすく解説しています。また、ここでは由比地区の地すべりの動きをコンピューターにより24時間監視しています。

(寺尾地すべり)

昭和36(1961)314日寺尾山南側で大規模な地すべりが発生、国道一号線、東海道本線まで土砂が到達し大きな社会問題となりました。国による対策が行われ、土砂は東名高速道路由比海岸の埋め立てに使用されました。(写真右下:建設中の東名高速道路 昭和42年頃・佐野写真館提供)



興津駅をスタートしたウォーキングは「小池邸」で一旦ゴールとなり、由比地滑りセンターには希望者のみの参加となりました。終了後、希望者を由比港「浜のかきあげや」までご案内し由比の味を楽しまれた方もいらっしゃいました。晴天に恵まれ、美しい富士山を見ながらのウォーキングは、無事に終了しました。またのご参加をお待ちしています。

ウォーキングマップ







           

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観光ボランティアガイド・駿府ウエイブ

       


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