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駿府談判第8弾

「トンヤレ節」を知っていますか・・・今回で、駿府談判も最終話です。

黒船来航・・・それまでの幕府の無能ぶり体制や人材では、欧米列強からの侵略に対抗出来ず、倒幕運動が盛んになりました。その最中、突然 大政奉還がなされ、奮い上げた矛先をどうしようかと、各地で戦いが起きたのです。そして、鳥羽伏見の敗戦により徳川慶喜が大坂から船で江戸に逃避し、寛永寺にて恭順に入りました。しかし真意(尊王)が分かって貰えずに無視をされ続けました。官軍は目に見える行動として、徳川の江戸城総攻撃に向けて5千人の行進をしたのです。そこに駿府に居た東征軍本隊の西郷隆盛への山岡鉄舟に託された嘆願となったのです。

1868年3月9日駿府・伝馬町に於いて「山岡鉄舟と西郷隆盛」の談判が行われて、今年は150年…その時に、この「トンヤレ節」が歌われたのです。


            ピィ~ヒャ~ラ    ピッピッピ  ♪
                         ピィ~ヒャ~ラ    ピッピッピ♪

宮さん宮さん お馬の前に ヒラヒラするのは何じゃいな  トコトンヤレ  トンヤレナ
あれは朝敵 征伐せよとの 錦の御旗じゃ 知らないか トコトンヤレ  トンヤレナ

一天万乗の 一天万乗の ミカドに手向かいする奴を  トコトンヤレ トンヤレナ
狙い外さず 狙い外さず どんどん撃ち出す 薩長土  トコトンヤレ  トンヤレナ
                                           一天万乗とは・・・天下を治める人の意

音に聞こえし関東サムライ どっちへ逃げたと問ふたれば  トコトンヤレ  トンヤレナ
城も気概も 城も気概も 捨てて吾妻へ逃げたげな  トコトンヤレ  トンヤレナ

国を迫ふのも人を殺すも 誰も本意ぢゃないけれど  トコトンヤレ  トンヤレナ
薩長土肥の  薩長土肥の 先手(さきて)に手向かいする故に  トコトンヤレ   トンヤレナ


「宮さん 宮さん」とは戊辰戦争の東征軍大総督・有栖川宮熾仁(たるひと)親王の事です。この親王が駿府城内にあった城代屋敷を宿舎にし、参謀だった西郷隆盛は 本陣・脇本陣・旅籠を使っても まだ行軍を収容しきれず、近くの桐油を扱う松崎屋源兵衛宅に泊まっていました。
そして、「錦の御旗」は後醍醐天皇の時代に作られたと言い、江戸時代の大方の庶民は知る由もない。その「トンヤレ節」は、有栖川宮熾仁親王が御旗を立てて 進軍する様子を歌ったものです。歌詞は6番まであり、勇ましい歌詞がある一方 誰も本意じゃないけれどと苦悩が読み取れ、作詞は諸説ありますが、作曲は大村益次郎です。

慶喜公が歌を読み謹慎
       「国の為 民のためとて 今しばし 忍が岡に すみそめの袖」
それに対して庶民の狂歌がこちら
       「大木をば たおしてかけし一橋 渡るもこわき徳川のすえ」
       「 二つ箸持つとも喰えぬ世の中に 一ツ橋でも喰えなかるらん」

静岡市葵区江川町交差点から東へすぐに、この松崎屋源兵衛宅跡に「山岡鉄舟と西郷隆盛の会見の碑」があります。そして30m東のビルの壁面に勇ましい山岡鉄舟が馬に乗った絵が描かれています。一度見て下さい。

               

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駿府談判第7弾

西郷隆盛の生き方

今回は駿府談判のもう一人の立役者・西郷隆盛です。

  大河ドラマ「西郷どん」は10代薩摩藩藩主・島津斉興の下、横暴な有り様に民衆の現状を江戸の斉彬へと文を送り続け、幕府を動かし1851年藩主交代となります。そして理想の国造りを実行して行く11代斉彬に、時代の流れ「倒幕維新」の波が加速して襲い掛かります。ところが、1858年斉彬の突然の死・・・12代は甥・茂久(もちひさ)が継ぎ、1862年にその父・島津久光の行列の前を英国人が、横切り、斬られた「生麦事件」が起こります。それがイギリスと、たった一つの藩とが戦った「薩英戦争」を引き起こし賠償交渉(重野厚之丞が凄い!)により、親密な関係になっていくのです。

その後、1864年西郷隆盛は薩摩藩の軍隊を率い、長州藩と戦い勝利しますが、大成を考えるに、坂本龍馬らの仲介で「薩長同盟」を結び、倒幕運動へと動き出します。その運動のさなか、突然の大政奉還がなされ、振り上げたこぶしを下ろす事が出来ず、官軍が錦の御旗を掲げ江戸城総攻撃の行進となったのです。それが、1868年3月9日に駿府伝馬町・松崎屋源兵衛宅での徳川慶喜公使者・山岡鉄舟との駿府談判に繋がるのです。それは、「 命もいらず名もいらず、官位も金もいらぬ人は、仕末に困るもの也。この仕末に困る人ならでは艱難( かんなん)を共にして国家の大業は成し得られぬ也」とは西郷が鉄舟を評した言葉である。その後、勝海舟との薩摩藩邸での会談で江戸の町は救われました。

明治新政府が出来つつあり、1871年政府使節団が欧米視察に出かけた後、西郷は留守を任されました。この頃信頼する山岡鉄舟を明治天皇の侍従に推薦したものと思われます。1873年「征韓論」がおき・・朝鮮を武力で征伐しようや、軍隊を派遣しよう…等の過激な主張はなく使節派遣に赴きたいと言ったのを、帰国した岩倉使節団の大久保利通らに意見を退けられた為、故郷の鹿児島へ帰ります。

1874年若者の教育を目的とした私学校を作り、多い時は130校1万人程になりましたが、不平士族が次第に力を持ち、明治10年(1877年)若者たちの決起に、リーダーとなって西南戦争を起こし、かつて自分が設立した明治政府へ反旗を振り上げ、破れて城山にて自決します。49歳でした。

いつも不思議に思っていま
した。なぜだろうと、考えても、考えても分からず・・・西郷隆盛は自分の信念を行動に起こして民衆の中にいつも居る人だったのですね。だから反逆者になっても、何時までも人の心の中に残る人なんです。きっと!


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駿府談判第6弾


山岡鉄舟と禅
 山岡鉄舟が禅を志したのは、13歳頃からで『いやしくも身を武門に委ぬるものは、忠孝の志、夢々忘るべからず。しかもして父の曰く、人賤しくも、人の人たる道を極めんと欲せば、形に武芸を講じ、心に禅理を修練すること第一の肝要なりと』この手記が物語るように鉄舟は忠孝の道、言い換えれば人の人たる道を究める為に剣と禅を修めたのです

自分の周囲の環境について、あれこれと心を動かさずに、心を静めることが「坐」であり、自分の心を見つめ、思いやりや協調性に仏性が宿っていると信じて、動揺しないことが「禅」だというのです。つまり禅とは欲や雑念に取らわれず、自分の心を真摯に見つめる修行です。山岡鉄舟が優れた心境に到り得たのは、剣術に負うところが少なくないのですが、そのまた剣術も禅に依って完成せられたのです。

   
舟が明治天皇の侍従を勤めておりました明治初め、1と6のつく日が休日で・・・月に2回は握り飯を腰に草鞋がけで東京から箱根を越え、静岡県三島の龍澤寺へ120キロを歩き、参禅に通っておりました。3年目のある日、星定和尚が初めて「よし、と禅問答で許しました。ところが鉄舟は良いとは思わない、実感がわかない・・・こんな事なら3年通って馬鹿をみた」と腑に落ちぬ体で和尚のもとを辞去し徒歩で東京へ引き返して行きました。箱根の山に さし掛かり、ふっ!と 振り返った途端 ” ぬっ!”と現れた富士山を見た瞬間、 は!っ” と豁然(かつぜん)大悟(たいご)しました。(豁然大吾とは・・・突然に開ける事の意味です。)喜びのあまり 鉄舟はただちに踵を返し星定和尚の元、龍澤寺へ駆け戻った。鉄舟の姿を見ると和尚は「今日は おまえが間違いなく帰ってくるだろうと待っていた。」と言われたそうである。和尚には鉄舟の心機一転の様子がすでに見えていたものらしい。

『晴れてよし曇りてもよし富士の山   もとの姿はかはらざりけり』

この和歌は、山岡鉄舟が、この大悟の心境を現したものです。



そんな、鉄舟は自分の剣法は人を切る為ではなく、自分の大悟の為だけにあることを意味した。武士道に敵はないという主旨「無敵の剣法」と言われ、勝敗よりも 精神鍛錬を重視した「一刀正伝無刀流」を開きます。

最後、山岡鉄舟は、明治21年に53歳胃癌で亡くなるのですが、終焉は壮絶というべきか、恐ろしい程に見事でした。当時は痛み止めもなく激痛であるにも関わらず、鉄舟は穏やかで安らかで、そして毅然として…自ら死期を悟ると、真っ白の着物に着替えて袈裟をかけ皇居に向かって結跏趺坐(けっかふざ:坐禅)して南無阿弥陀仏を称えつつ、妻子、親類、友人や門弟たちに笑顔を見せながら穏やかに逝ったのです。

時は流れて明治中期。東京の子供たちの間でこんな蹴鞠歌が流行りました。

『下駄はビッコで 着物はボロで 心錦の山岡鉄舟 』


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駿府談判第5弾

山岡鉄舟と高橋泥舟

幕末の三舟とは、幕末から明治時代初期にかけて活躍した幕臣の勝海舟・山岡鉄舟・高橋泥舟の事であり、三人が舟と言う文字を持つからである。剣・禅・書の達人で、超一流の武道家である。その中で一番有名なのが「勝海舟」であり、次は江戸城無血開城の立役者「山岡鉄舟」ですが、その中の「高橋泥舟」はあまりなじみのない名です。しかし、この三人が江戸無血開城に向けて連携することで江戸の町は守られ明治の時代を始められる事になったのです。今回は高橋泥舟を取り上げましょう・・・

高橋泥舟・・・天保6年生まれ(1835-1903)「情の人」

   もと山岡謙三郎と言い山岡家の次男として生まれました。山岡家は槍の名家で百石取りであったが長男・山岡静山が家督を継ぎ,次男の泥舟は母方の高橋家の養子となり、兄について槍の修行をして神業といわれる実力をつけました。ところが、兄・静山が27歳で早世してしまうのです。


「暗夜を斬る」吉川英治の小説に・・・夏の初め頃から静山は、脚気を病んでいたが、7月の暑い日盛りの頃、自分の水練の師たる人が、何か恨みをうけている者の為に、品川沖の水練場で、相手に謀られて危難におとし入れられようとしていると病床で聞き「一大事」と自分の重態も忘れて、沖へ泳ぎ脚気衝心を起こして途中でこと切れてしまったのである。

次男の泥舟でしたが、他家に養子に出ていたので、山岡家が絶えるのを危惧し、妹の英子(ふさこ)に道場の門人だった小野鉄太郎(のちの山岡鉄舟)を婿養子に迎え山岡家を存続させて、二人は義兄弟となったのです。その後、高橋泥舟は一橋慶喜に随行して上洛し御徒頭となり従五位伊勢守を頂きます。泥舟は、鳥羽伏見の戦いに敗れ江戸に逃げ帰った将軍・徳川慶喜に恭順を説いて、江戸城から上野寛永寺に退去した慶喜公の護衛をしました。徳川幕府の全権を任かされた勝海舟は錦の御旗を掲げ江戸に向かって行進をしている征討軍の西郷隆盛への使者として「誠実かつ剛毅な人」として高橋泥舟に白羽の矢を立てました。しかし泥舟は慶喜公から親身に頼られ、情緒不安定の中、主君の傍を離れるわけには行かなかった。泥舟は自分の代わりに生家・山岡家を継いだ義弟の山岡鉄舟を勝海舟に推薦し、「泥舟が推薦するものならば間違いないと云うことで承認し、慶喜公自らが山岡鉄舟にその役目を命じ・・・駿府伝馬町松崎屋で、勝海舟から託されていた手紙を西郷に渡し、上野寛永寺に謹慎している徳川慶喜の赦免と江戸総攻撃の回避を懇願した。鉄舟が駿府談判の大役を果す事となったのである


江戸城無血開城後、泥舟は慶喜公が水戸へ退去する時も、徳川家が静岡へ移住する時にも従いました。廃藩置県後、職を辞して東京へ戻り隠棲してしまうのですが、その後任官の誘いがあっても、主君が一生世に出られない身になっているのに自分が官職につく事は出来ないと言う姿勢を貫きました。この三人が時を同じくして、この静岡に居た事にびっくりしませんか・・・・・

「狸にはあらぬ我が身も土の舟、漕ぎいださぬが、かちかちの山」と
自らが詠い泥舟と改めたらしい。土や泥で出来た舟だから、決して漕ぎ出さない、世に出ないという泥舟の戒めだったのだ。

こんな性格の高橋泥舟ですので、書籍も少なく知られる事がないのですが、人として無言で輝いています。皆さん、覚えて下さい、高橋泥舟を・・・。  
お墓は谷中・山岡鉄舟の全生庵の近くの大雄寺です。
 


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駿府談判第4弾

山岡鉄舟と清水次郎長

    ご存じ清水の次郎長・・・イヨッ!・・・

♪旅ゆけば~・・駿河の国にぃ~茶のかおりぃ~・・♪・・・ペン・ペン・ペン


この浪曲
広沢虎造が「清水次郎長」で、うなった・・・
その次郎長とは、日本人では知らない人のいない有名な侠客です。
伯父の米問屋・山本次郎八の養子となり、本名山本長五郎・・「次郎八の長五郎」から
通称・次郎長と呼ばれる事とになりました。養父の死後、米問屋を継ぎましたが、旅の僧が「あなたの運勢は25歳までしかない」と言われたのが機で姉夫婦に店を譲り、侠客となり多数の子分・28人衆(大政・小政・大瀬の半五郎・森の石松・増川の仙右衛門・法印の大五郎・七五郎・鬼吉・鶴吉・・・ほか)を従え、富士川や海上交通の縄張りを争い、闘争や殴り込みをし、賭博やいかさま・・・投獄・・・等、各地で勢力を張っていた。
そこには義理や人情の世界がありました。

                                       
                        ガキ大将の時によく遊んだ美濃輪神社                              御利益のある「勝札」

ここで・・・駿府談判が登場してきます。・・・次郎長と山岡鉄舟との出会いがあるのです。
江戸総攻撃を目指し進撃してくる新政府軍の有栖川宮熾仁親王を大総督とする東征軍の参謀・西郷吉之助(隆盛)に幕臣・山岡鉄太郎(鉄舟)が会見する為に東海道を走り抜け薩埵峠まで差し掛かった時に、山の上に官軍が鉄砲を向け待機していた。危機を感じた山岡は峠下の藤屋・望嶽亭に逃げ込んだ。
ここの主人は山岡鉄舟の熱意ある行動に賛同し、海に出られる隠し階段から漁師の身なりに着替えさせ、信頼できる次郎長に託された。駿府潜入に苦慮した鉄舟を助け、官軍のいる東海道を避け海沿いの道・久能街道を伝馬町の西郷のいる松崎屋源兵衛門宅へと向かったと伝えられています。

                 


その後の
西郷・山岡の会見は御存じでしょう…そして、次郎長は歴史の流れの中で・・・段々良い人に成っていくのです。明治元年(1868)9月18日清水港内に暴風雨の為、避難していた咸臨丸が官軍の攻撃を受け、乗組員7名は惨殺され死体は海に投棄される事件が起きました。人々は賊軍とみなされる事を恐れ誰も手出し出来ずにいる中、次郎長は処罰を恐れず港内に流れ着いた死体を集め埋葬供養をしました。この事で駿府藩から呼び出しを受け詰問されたのですが、「死ねば仏だ。仏に官軍も賊軍のない!」と・・・その返答を聞いた山岡鉄舟は非常に感銘し、「生きて一日の歓びなく、死して万世に名有り」の掛軸を贈り「壮士の墓」に文字の揮毫しました。

         
      石柱の正面が「壮士の墓」です。            下は清水区港町に復元された船宿「末廣」です。

             
   
 
以後、博徒に過ぎない次郎長に市中取締りを命じます。それは明治21年に鉄舟が亡くなるまで続きました。富士の裾野の開墾や有度山の開発・相良の石油採掘そして英語教育の普及や社会活動また晩年には清水港近くに 船宿「末廣」を経営し、子ども達が好きな菓子を持ち歩く好々爺になっていました
        (現在の清水区美濃輪町に次郎長の生家があり、リニューアルされました。


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駿府談判第3弾

山岡鉄舟と木村屋のあんパン

     
4月4日は「あんぱんの日」として記念日に認定されています。

それは
徳川幕臣であった山岡鉄舟とあんパンの試作者・木村安兵衛は明治維新以前から剣術を通じての知り合いでした。その維新の忙しい時期を過ぎて・・・もちろん静岡市での慶喜公の警護や幕臣達の身の振り方や地域の発展を見届け東京に戻りました。そして西郷隆盛の推薦で明治5年より明治天皇に仕えることになったのです。その明治7年の東京銀座の木村屋・木村安兵衛のあんパンの試食に「これうまいじゃないか、明治天皇にも召し上がって頂こう」と酒種のパン生地と餡の甘味に桜の花の塩漬けが絶妙で、明治8年4月4日東京向島にある水戸藩の下屋敷での花見のお茶菓子として献上したのです。天皇陛下はこの桜あんパンを気に入り、また皇后陛下のお口に合い「引き続き納めるように」というお言葉を戴いたのです。この事から陛下の召し上がったあんパンは、銀座へ行けば手に入ると爆発的に広まったのです。その為山岡鉄舟という人物なくしては、木村屋あんパンは語る事が出来ないと言われているのです。・・・もちろん新しもの好きな徳川慶喜公にも献上されました。「近くにあったら毎日食べられるのだが・・・」

そんな中、東京近郊店他の全国展開へと踏み出して行くのですが、木村屋3代目はまず手始めに地元に顔の利く清水の次郎長が周囲の状況を判断できると考え、また慶喜公が住まう地方の中心都市である・静岡と漁業の盛んな焼津の調査をして、明治19年5月5日に元代官屋敷(現在は浮月楼)近くの紺屋町に静岡支店を開店するのです。
当たり前ですが、その当時はまだ東海道線は開通していないので
新橋から横浜まで鉄道で、そこからは船で清水港まで来たのです。
ですのであんパンを持参するならともかく、販売となると,
技術やノウハウを伝えなくてはならず、時間とお金がかかりました。

焼津の店は軍関係への積み込みビスケットの需要があると考えました。ご飯を炊くには火を使い煙が、敵に居場所を教えるようなものだと。
軍も缶詰とビスケットという大規模な食料の改革を行っていったのです。

この時代を象徴 する言葉として有名なものに
「散切り頭を叩いてみれば、文明開化の音がする」という 言葉があり
官民両方ともエネルギッシュな時代の流れがあったのでしょう・・・
ジャムパンも木村屋3代目が考案したと言われています。

             

明治19年から130年近くは経っているのです。

その場所を特定しようと紺屋町名店街の地図を調べたいと行きましたが、昭和15年の静岡大火や昭和20年の戦火に焼かれ現在残っている地図は昭和2年のもの。
残念ながら特定出来る店名は見つける事が出来ませんでした。開店から昭和2年までは40年近く経っていますが、本当に残念・・

(焼津店は明治21年4月開店現在は不明)。    
    「銀座木村屋あんパン物語」より




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駿府談判第2弾

山岡鉄舟と歌舞伎「慶喜命乞」

慶応四年三月初旬の或る日、明るき日の午前。

駿州静岡の城下 征討大提督府武家参謀の詰所。

家は伝馬町の富豪某居住なりといふ。舞台の装置は平舞台、室内より庭園を見る。

武家参謀詰所は、十畳ほどの二室を打っ通してそれにあて、その奥に廊下あり、鍵の手に曲りて総督府の御用室に通ずるも、御用室は見えず。一室には、急造りの大卓子(テーブル)を置き
床几敷脚あり。・・・

幕あく。詰所出仕樋口某、谷村某、安場某、二室の中間に一丈四方の大地図を広げて・・・・

*****こんな書き出しではじまる、真山青果作・歌舞伎  ”慶喜命乞い”

   
  講談社・真山青果全集 第7巻に載っています。
        第1部  江戸城総攻
        第2部  慶喜命乞い
        第3部  将軍江戸を去る
 
     が、かつて歌舞伎で上演されたのです。
       
    第2部の慶喜命乞いは、私達が知っている
    伝馬町の 昔の東海道沿いにあった松崎屋
    源兵衛宅での 西郷・山岡のお話です。


慶応3年(1867)徳川慶喜は264年に及ぶ徳川幕府の征夷大将軍の地位を朝廷に返上した。大政奉還である。しかし、慶応4年(1868)1月鳥羽伏見の戦いで勝利した新政府軍は“錦の御旗を掲げた”のに対し朝敵として慶喜は追撃されることになった。

慶応4年3月5日5000人を率いて東征軍大総督・有栖川宮熾仁親王は江戸に向け進軍、駿府の町に到着した。参謀・西郷吉之助の宿舎は城代屋敷(有栖川宮の宿舎)の傍の伝馬町・油屋の松崎屋源兵衛宅であった。

慶喜公の命嘆願を願う和宮さま・篤姫さまの手紙が飛び交い、上野寛永寺の坊さんの命乞い、また勤王派に忠誠を誓う旧幕臣の取次・・・・  将軍の恭順にもかかわらず、幕府の残党はどこまでも官軍に反抗しようと戦備を用意し、西郷吉之助を総大将とする官軍もまた江戸城を粉砕して徹底的に江戸の壊滅を考えていた。

ここに慶喜公の依頼を受けて駿府を目指して馬を走らせたのが山岡鉄太郎と薩摩藩士・益満休之助であった。「朝敵徳川慶喜の家来山岡鉄太郎、大総督府へ罷り通る」と大声で名乗り・・由比の望嶽亭や次郎長の話もありますが・・西郷と山岡は、お互い胸襟を開いて意気投合し、多いに談じたと言います。その中で7か条の条件の提示の1つだけ・・・・慶喜公を備前藩にお預け・・・それだけは、絶対に譲れなかったのです。







そんなお芝居を静岡でも、見てみたいですね


第3弾は
木村屋の
あんぱんです
               



歌舞伎座
パンフレットより


                         

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駿府談判第1弾


静岡市葵区伝馬町にある
               西郷・山岡の駿府談判の壁画


                 
大政奉還から今年は150年を迎える記念の年です。
「江戸無血開城」論考として平成29年6月30日の静岡新聞夕刊に水野靖夫氏の記事が載りました。今まで西郷隆盛と勝海舟との間で締結されたとされ、その下準備と言われている山岡鉄舟の駿府・松崎屋での功績の認識が少し変わるかも・・・・・


慶応4年(1868)3月9日15代将軍徳川
慶喜公の命を受けて山岡鉄舟と薩摩藩士・益満休之助が急ぎ江戸総攻撃を目指し進撃してくる新政府軍の有栖川宮幟仁親王を大総督とする東征軍の参謀・西郷吉之助(隆盛)と幕臣山岡鉄太郎(鉄舟)の会見が、ここ伝馬町・松崎屋源兵衛宅で行われた。慶喜公の恭順・慶喜公の処分の譲歩を確約した上で西郷・勝のお膳立てをしたのであると・・
これが「駿府談判」と言われる由縁です。



         



水野さんは英国公文書を丹念に読み解いて、山岡鉄舟の性格にもよろうが功績を勝海舟に譲ったと・・・
山岡鉄舟・・その人間性は、西郷隆盛をして「金もいらぬ、名誉もいらぬ、命もいらぬ人は始末に困るが、そのような人でなければ天下の偉業は成し遂げられない」と賞賛させました。この駿府談判での歴史は見る目が変わりますよ















         
                                                                                     
「西郷・山岡会見史跡記念建設記念誌より」

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小島藩を知る」~県中東部唯一の大名

小島陣屋跡は、国道1号線興津東端から52号線を約4km北上、「小島南」の信号を左折した山手の高台にあり、陣屋からは興津川を挟んだ小島集落が一望できます。ここでは、国指定史跡に指定された(平成18728)小島陣屋跡をご紹介します。

【小島藩とは…】

小島藩主のルーツは、徳川氏(松平家)の三河時代の分家・十八松平の一つ滝脇松平に始まります。さらに八代滝脇松平・信治が元禄18(1698)6月、武蔵・上野・駿河の3国にわたる所領のうち、武蔵・上野の所領を収公し、駿河の庵原・安倍・有度と新たに小嶋村など18ヶ村を与えられ、30ヶ村・1万石を領有します。このことにより初代小島藩主の誕生となります。

そして、6年後の宝永元年(1704)、甲州往還(身延道)の要所・小島の地に陣屋を築き、以来慶応4(1868)に十代小島藩主信敏が上総の国(千葉県木更津市)へ転封に至るまで170年間、駿河の国・県中東部唯一の大名として所領の統治を続けてきましたが、廃藩となり陣屋としての使命は終わりました。

 

幕末の県内大名配置          小島藩領地分布図

 

【小島陣屋】

陣屋というのは大名の住まいであり、藩政を行使する役所でもありました。いわゆる城なのですが、徳川時代には大名は規模によって、城主、城主格、無城主に分けられ小規模な大名は例え城の構えを持っていても「城」と呼ぶことは許されませんでした。小島藩は1万両の大名としてその藩主の居場所は、「陣屋」と呼ばれていました。

 

陣屋のある高台は、「別当沢河岸段丘」と呼ばれ、南は沢によってえぐられ天然の堀の役目をし、山側の緩やかな斜面地は、石垣を多用して台地を確保した階段状の石塁構造が特徴です。表門から陣内へカギの手に曲折している枡形を取り入れた通路や、陣屋で一番の見所との評判の高さ4m強の石垣が東面に見られます。この石垣はいわゆる「切込みハギ・算木積」と呼ばれ、コーナー部分に加工石を急激な勾配に反りを取り入れ積み上げた石垣です。このような構えは陣屋にあまり見られない城郭づくりだそうです。

                     

小島陣屋の石垣(大手門付近)

現在陣屋の跡地は、茶や野菜の畑になっており、東側の石垣に沿っては住宅化されていますが、中央部の主殿跡は広場として開放され地域の憩いの場に利用されています。現在整備は十分ではありませんが遺構としての保存度はよいと評価されています。地元の自治会を中心に保存運動が活発に展開されています。 

 

小島陣屋絵図(大正2年刊行の『小嶋村誌』より)

 

陣屋跡全体(北川より撮影)

【小島藩の育まれた文化】

   三代藩主・昌信と四代藩主・信義に仕え、わが国の国文学史上「黄表紙の祖」とされる100石取りの武士・「恋川春町」(戯作者・浮世絵師・本名:倉橋格)を輩出するなど小藩ながら特色ある文化が生まれました。

 

小島藩主・書院      三代藩主・昌信公が葬られている龍津寺

小島藩主・書院は、昭和3年に陣屋から現在の国道52号線沿線に移築され、小学校長室兼住宅、公会堂として使われてきました。昨今、重要性が叫ばれるようになり元の陣屋跡へ復元・移転が計画されています。

 

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安倍鉄道~100年前に走り出した軽便鉄道

今からちょうど100年前、安倍川沿いに続くのどかな田んぼの中を軽便が煙を上げ客車1両、貨車1両を引いて進んでいました。敷設の目的は、安倍奥の豊富な木材資源の開発と、人口増加により日用品の需要増のため、貨物輸送が必要となったのです。この「幻の懐かしい鉄道」が安倍鉄道だったのです。大正5(1916)から昭和8(1933)にかけて静岡市葵区井宮から牛妻までの9.4Kmを走った小さな軽便鉄道でした。

廃線からすでに80年余りが経ち、廃線跡は大きく変わり、昔の面影を見ることはできませんが、安倍鉄道の敷設は静岡市民にとって忘れることのできない一大事業でした。ここでは鉄道の歴史を振り返つてみます。





     

         井宮駅跡          大正10年頃の井宮駅(山梨写真館提供)

【走り始めた安倍鉄道】

安倍鉄道の正式名称は「安倍鉄道株式会社」ですが、人々には軽便として親しまれました。起点の井宮駅は現在の井宮交番の裏の一角約500坪が駅と機関庫になっていました。珍しい気持ちも手伝って乗客はかなり多く、最初の頃の収入は貨物より旅客のほうが多かったようです。終点駅は牛妻の坂下に置かれました。その間に簡単な8(菖蒲谷・御新田・役所前・福田谷・下村・大土手・門屋・中沢)が置かれました。(写真・右上 井宮駅跡の説明看板)


【上り坂だから、牛妻行が《上り》】

安倍鉄道は起点が井宮なので、牛妻行は下りになるのですが、当時の重役が「牛妻行は上り坂だから《上り》にしよう!」と決めてしまったそうです。井宮~牛妻間の運賃は、大人が24銭、子供は半額の12銭でした。また、自転車は5銭、乳母車は10銭で、デッキに縛り付けては運んだということです。当時の時刻表によると、牛妻行、井宮行とも始発が午前6時に同時発車。それ以降は、7時、8時…1時間ごとに両駅を発車し、最終は午後8時の14往復でした。(写真・右上 福田谷駅での上り・下りのすれ違いの様子)

                     

大正5年に開通した頃の安倍鉄道の機関士はわずか3人でした。他に車掌が4人、機関工が2人、 駅員3人、機関助手3人、線路作業員6人の合わせて21人でした。鉄道
会社としては職員が少なく誰もが昼夜を問わず、油にまみれて働いていたと言います。

     

           牛妻駅跡          大正14年頃の牛妻駅(山梨写真館提供)

【事業不振で鉄道廃止へ】

安倍鉄道は、貨物輸送や地元住民の足として親しまれ、大正5(1916)の営業開始以来順調に
収益伸びていきました。大正6(1917)には貨物量は更に増加し、一時期は改軌や梅ケ島温泉
への延長、藁科川の支線の構想があり、静岡駅までの延長が計画されたこともありました。
しかし、大正7(1918)になると国内経済は不況に見舞われ、安倍鉄道は、致命的な打撃を
受けることになりました。

大正12(1923)91日の関東大震災では、静岡でも被害受け福田谷の橋台の石垣が崩れる
など修復に多額の費用がかかりました。

大正13(1924)になると開業以来7年余りとなり早くも線路の枕木、貨物等の破損が出始め修理のための費用が増えていきました。この年を境にして営業成績も急激に低下していきました。

事業不振の直接の原因は、昭和に入りバスやトラックによる輸送が始まり、旅客や貨物がそちらに取られたためです。昭和8(1933)安倍鉄道は、廃止されました。

                 

【安倍鉄道の生き証人】

安倍鉄道の生き証人、三ツ谷光雄さんをご紹介します。光雄さんは、現在93歳。昔のお話を聞かせてくださいました。「らっきょう機関車に乗った記憶や、天気の良い日には無蓋車(むがいしゃ:貨車の一種)に布団を干したことなど…」17年間のわずかな時間、安倍鉄道が本当にあったのだと実感しました。安倍鉄道廃止後は、牛妻駅の跡地を光雄さんのお父さんが購入し、全面柿畑だったそうです。光雄さんは、現在の地主さんです。



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宇津ノ谷峠にある4つのトンネル…明治のトンネル編

静岡県で観光名所となっているトンネルと言えば、伊豆の「旧天城トンネル」が有名ですが、それに負けず劣らず風情のある佇まいを見せているのが、現役のトンネルとして初めて登録有形文化財となった「明治のトンネル」です。静岡市と藤枝市・岡部の間にある宇津ノ谷峠には、この「明治のトンネル」の他に便宜的に「大正のトンネル」、「昭和のトンネル」、「平成のトンネル」と呼ばれる3つのトンネルが平行しています。

時代ごとに、このようなトンネルが残っていることは珍しいことですが、ここでは宇津ノ谷峠の歴史と共に「明治のトンネル」をご紹介します。

【蔦の細道(古代・中世 約700年~1590年頃)(緑色)

宇津ノ谷峠越えの最も古い古道で奈良時代からと思われます。この道は、平安時代の文学作品、「伊勢物語」により広く知られるようになりました。奈良・平安時代にかけて在原業平、藤原
定家等の歌人が多くの詩を残しています。

【旧東海道】(赤色)

天正11(1590)豊臣秀吉が小田原征伐の時、大軍を通すために開拓されたものだと言われています。江戸時代に入り正式な東海道として参勤交代、朝鮮通信使や一般の旅人が明治初期まで
通行していました。

【明治のトンネル】(黄色)

・日本初の有料トンネル

旧東海道は、途中、斜面の崩壊などの危険を伴う個所が数多く存在していたため、街道脇にはその頃築かれたと思われる防護用の石垣が今も残されています。そんな難所となっていた宇津ノ谷峠に、当時の村長であった「宮崎総五」の呼びかけに賛同した7人による結社をつくり、トンネルの掘削工事が開始されました。結社で工事費用の2/3以上を賄い、50年間「道銭」の徴収を許されたが我が国初の「有料トンネル」として知られ
ています。

この「明治のトンネル」は、峠越えの危険や労力を大幅に減らすものとなりましたが、このトン
ネルにはいくつかの特徴がありました。

(写真・右 : 静岡側より見た「明治のトンネル」)

・東西の出入り口の工法の違い

岡部側…比較的地盤が良かった為、トンネル内を木材で覆う工法がとられました。

静岡側…静岡側から20mは地盤が悪く崩落の危険が高かった為、石組みの工法がとられました。

このように、東西で全く印象の異なるトンネルとなりました。

・明治のトンネルの秘密

両サイドより始められた掘削作業は、出会うはずの場所で出会うことが出来ず、高低差が生じるとともに、くの字のように折れ曲がるといった現代では考えられないお粗末な姿のトンネルとなってしまいました。掘削技術の未熟さ、測量技術のレベルの低さ、予算的な問題もあって当初の計画とは大きく異なるトンネルとなってしまいました。

明治11年、明治天皇御通行の際には中央付近では危険の為、下馬されたとの記録も残っているそうです。

入り口には、太陽光を取り入れる反射鏡が、またトンネル内には50ものカンデラが吊るされていましたが、それでもただでさえ暗いトンネル内部において、入口から出口が全く見えない、くの字のトンネルは、中央付近にいくと顔を伺うことさえできなかったと記録にあります。

・生まれ変わった「明治のトンネル」

こんな明治トンネルでしたが、明治29年にこの闇を照らしていたカンデラが原因となって火災が発生しました。それから何年かは元の峠道を行くこととなりましたが、明治37年に改修され、くの字から一直線に、内壁も耐火レンガで覆いつくされ実に美しいトンネルに変貌しました。レンガの色は、一般的に黒い方が強いと言われています。上側と下側の色に着目してみてください。

                     

平成8年に行われた2度目の改修では、トンネルの補強と照明が付けられました。補強では、裏込め工法とロックボルト工法で補強された跡がありますが、目立たないよう工夫されています。                      

開通から利便性とともに、大いに賑わいを見せた「明治のトンネル」でしたが、時代の変遷の中、鉄道が開通すると、主役の座を追われ、やがて利用者減っていきました。その後、自動車社会が訪れると、交通の主役は、人馬から車へと移って行き、宇津ノ谷峠を抜けるトンネルも変遷していきました。

冒頭でも紹介した通り、宇津ノ谷峠には、明治、大正、昭和、平成の4本のトンネルがあります。明治から各時代のトンネルが現存し通行できるのは全国でここだけです。まさに「道のエコミュージアム」です。
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「赤い靴」の女の子

童謡「赤い靴」の女の子は、異人さんにつれられてアメリカへは行っていなかった…

 静岡市の日本平の山頂に赤い靴の母子像があります。この地で私たち駿府ウエイブが観光ガイドをしていると、この像を見て「横浜にあるのは知っていたけど、なぜここにあるの?」とか、「函館に観光に行った時、ガイドさんから赤い靴の女の子の話を聞いたことを思い出した。」など、よく話題になります。ここでは童謡「赤い靴」にまつわる話をご紹介します。              
(写真右・日本平山頂から見た富士山) 

・童謡「赤い靴」にまつわる話

この童謡のモデルになった女の子は「岩崎きみ」と言います。明治37(1904)に現在の静岡市清水区宮加三(日本平の麓の村)に生まれました。母親の名前は「岩崎かよ」といい、18歳の未婚の母でした。父親の名を明かせない私生児ということから世間からの風当たりは強く、周囲からはふしだらな女と白い眼で見られていました。
       昭和61(1986)に日本平山頂に設置された・赤い靴の母子像

 そこで、母子は逃げるように北海道の函館にたどり着いたのです。母「かよ」は、函館で出会った「鈴木志郎」と知り合い、まだ小さい「きみ」がいることを承知で求婚され、結婚しました。

 しばらくして、夫「志郎」のもとに「平民農場の開拓に参加しないか?」との誘いがあり志郎と共に、開拓村(北海道留寿都村)への入植を決意します。当時「きみ」ちゃんは、3歳。明治時代の開拓村は、命がけで幼い子供を連れて行くなど考えられませんでした。そんな時、偶然知人より、アメリカ人宣教師のヒュエット夫婦が養女を探していることを知りました。「かよ」はずっと悩んだ末に「きみ」ちゃんを宣教師夫婦に養女として託したほうが、幸せになれるだろうと決意したのです。このヒュエット夫婦こそが歌詞に出てくる異人さんのことです。 (写真右・ヒュエット夫婦 ) 

しかし、そこは予想以上の過酷な環境と労働でした。ここでの農場団は結局苦労の末解散してしまいます。「きみ」ちゃんを、ヒュエット夫婦に託してから2年後のことでした。「かよ」と「志郎」は、二人の間に生まれた娘「その」を連れて札幌に出ます。

札幌に出た「志郎」は新聞社に入社、そこで同僚として知り合ったのが、野口雨情でした。同世代、子供一人という家族構成ということもあって急激に親しくなり家族ぐるみの付き合いが始まります。そして親しくなった雨情に「かよ」は、ヒュエット夫婦と共にアメリカに行き幸せに暮らしていると思うものの、片時も忘れることのできない「きみ」ちゃんへの思いを話します。母親の愛に感動した雨情はこれを詩に綴りました。この詩に本居長世が曲をつけて完成し、大正10年に発表したのが童謡「赤い靴」です。 

 この「赤い靴」の女の子が実在していたのが分かったのは、昭和4811月、北海道新聞の夕刊に掲載された『野口雨情の赤い靴に書かれた女の子は、まだ会ったことのない私の姉です。』という「岡その」さんからの投稿記事がきっかけでした。この記事を当時北海道テレビ記者だった菊池寛が知り5年あまりの歳月をかけ、昭和53年に女の子が実在していた ことを突き止めました。 

・赤い靴の女の子…その後の真実 

ヒュエット夫婦は、「きみ」ちゃんを、引き取り後、わが子のようにかわいがりました。しかし、「きみ」ちゃんには、病魔がおそいかかっていたのです。それは、その当時不治の病と言われた結核でした。このような状態の時、ヒュエット夫婦にアメリカから帰国命令が来ました。病の「きみ」ちゃんを、長い船旅で連れて行くことはとてもできず、命令は守らなければなりませんでした。そこでやむなく東京麻布十番の同じ系列教会の孤児院に預け、辛い思いでアメリカに向かったのでした。「きみ」ちゃんは、アメリカに行くことなく3年間の闘病生活の末、僅か9歳の短い命を閉じたのでした。お母さんと別れて5年後のことでした。現在、東京・六本木の鳥居坂教会の共同墓地に眠っています。この鳥居坂教会の近く、麻布十番に平成元年(1989)に「きみちゃんの像」が建てられました。(写真右・きみちゃんの像)

母親の「かよ」は、死ぬまで自分の娘「きみ」は、ヒュエット夫婦と一緒に元気に暮らしていると信じていました。野口雨情もこの歌を作詞する時、「きみ」ちゃんの真実を知っていたならば、童謡「赤い靴」が生まれることはなかったかもしれません。もしくは、かなり違った歌になっていたかもしれません。 

・赤い靴の「きみちゃんの像」は全国にあった 

「きみちゃんの像」は、上記の麻布十番のほかに、生まれ故郷の日本平山頂。歌詞に「横浜の波止場から…」とある横浜の山下公園と横浜駅中央通路。母「かよ」と父「志郎」たちにとって初めての地、函館にも平成21(2009)に開港150周年として出来ました。さらに、入植した開拓農場の北海道留寿都村(るすつむら)。夫婦が晩年を過ごし、お墓のある小樽市の運動公園にもあります。また、平成22(2010)には父志郎の故郷である青森県鯵ヶ沢町にも完成しました。
さらに2010年にアメリカ・カリフォルニア州の南部、横浜市と姉妹都市のサンディエゴ市の海辺の公園にも設置されています。(写真右・一番古い、横浜・山下公園のきみちゃんの像)





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