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駿府談判第4弾

山岡鉄舟と清水次郎長

    ご存じ清水の次郎長・・・イヨッ!・・・

♪旅ゆけば~・・駿河の国にぃ~茶のかおりぃ~・・♪・・・ペン・ペン・ペン


この浪曲広沢虎造が「清水次郎長」で、うなった・・・
その次郎長とは、日本人では知らない人のいない有名な侠客です。
伯父の米問屋・山本次郎八の養子となり、本名山本長五郎・・「次郎八の長五郎」から
通称・次郎長と呼ばれる事とになりました。養父の死後、米問屋を継ぎましたが、旅の僧が「あなたの運勢は25歳までしかない」と言われたのが機で姉夫婦に店を譲り、侠客となり多数の子分・28人衆(大政・小政・大瀬の半五郎・森の石松・増川の仙右衛門・法印の大五郎・七五郎・鬼吉・鶴吉・・・ほか)を従え、富士川や海上交通の縄張りを争い、闘争や殴り込みをし、賭博やいかさま・・・投獄・・・等、各地で勢力を張っていた。
そこには義理や人情の世界がありました。

                                       
                        ガキ大将の時によく遊んだ美濃輪神社                              御利益のある「勝札」

ここで・・・駿府談判が登場してきます。・・・次郎長と山岡鉄舟との出会いがあるのです。
江戸総攻撃を目指し進撃してくる新政府軍の有栖川宮熾仁親王を大総督とする東征軍の参謀・西郷吉之助(隆盛)に幕臣・山岡鉄太郎(鉄舟)が会見する為に東海道を走り抜け薩埵峠まで差し掛かった時に、山の上に官軍が鉄砲を向け待機していた。危機を感じた山岡は峠下の藤屋・望嶽亭に逃げ込んだ。
ここの主人は山岡鉄舟の熱意ある行動に賛同し、海に出られる隠し階段から漁師の身なりに着替えさせ、信頼できる次郎長に託された。駿府潜入に苦慮した鉄舟を助け、官軍のいる東海道を避け海沿いの道・久能街道を伝馬町の西郷のいる松崎屋源兵衛門宅へと向かったと伝えられています。
                 


その後の
西郷・山岡の会見は御存じでしょう…そして、次郎長は歴史の流れの中で・・・段々良い人に成っていくのです。明治元年(1868)9月18日清水港内に暴風雨の為、避難していた咸臨丸が官軍の攻撃を受け、乗組員7名は惨殺され死体は海に投棄される事件が起きました。人々は賊軍とみなされる事を恐れ誰も手出し出来ずにいる中、次郎長は処罰を恐れず港内に流れ着いた死体を集め埋葬供養をしました。この事で駿府藩から呼び出しを受け詰問されたのですが、「死ねば仏だ。仏に官軍も賊軍のない!」と・・・その返答を聞いた山岡鉄舟は非常に感銘し、「生きて一日の歓びなく、死して万世に名有り」の掛軸を贈り「壮士の墓」に文字の揮毫しました。
         
              石柱の正面が「壮士の墓」です。                   下は清水区港町に復元された船宿「末廣」です。

             
   
 
以後、博徒に過ぎない次郎長に市中取締りを命じます。それは明治21年に鉄舟が亡くなるまで続きました。富士の裾野の開墾や有度山の開発・相良の石油採掘そして英語教育の普及や社会活動また晩年には清水港近くに 船宿「末廣」を経営し、子ども達が好きな菓子を持ち歩く好々爺になっていました
        (現在の清水区美濃輪町に次郎長の生家があり、リニューアルされました。)


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駿府談判第3弾

山岡鉄舟と木村屋のあんパン

     
4月4日は「あんぱんの日」として記念日に認定されています。

それは
徳川幕臣であった山岡鉄舟とあんパンの試作者・木村安兵衛は明治維新以前から剣術を通じての知り合いでした。その維新の忙しい時期を過ぎて・・・もちろん静岡市での慶喜公の警護や幕臣達の身の振り方や地域の発展を見届け東京に戻りました。そして西郷隆盛の推薦で明治5年より明治天皇に仕えることになったのです。その明治7年の東京銀座の木村屋・木村安兵衛のあんパンの試食に「これうまいじゃないか、明治天皇にも召し上がって頂こう」と酒種のパン生地と餡の甘味に桜の花の塩漬けが絶妙で、明治8年4月4日東京向島にある水戸藩の下屋敷での花見のお茶菓子として献上したのです。天皇陛下はこの桜あんパンを気に入り、また皇后陛下のお口に合い「引き続き納めるように」というお言葉を戴いたのです。この事から陛下の召し上がったあんパンは、銀座へ行けば手に入ると爆発的に広まったのです。その為山岡鉄舟という人物なくしては、木村屋あんパンは語る事が出来ないと言われているのです。・・・もちろん新しもの好きな徳川慶喜公にも献上されました。「近くにあったら毎日食べられるのだが・・・」

そんな中、東京近郊店他の全国展開へと踏み出して行くのですが、木村屋3代目はまず手始めに地元に顔の利く清水の次郎長が周囲の状況を判断できると考え、また慶喜公が住まう地方の中心都市である・静岡と漁業の盛んな焼津の調査をして、明治19年5月5日に元代官屋敷(現在は浮月楼)近くの紺屋町に静岡支店を開店するのです。
当たり前ですが、その当時はまだ東海道線は開通していないので
新橋から横浜まで鉄道で、そこからは船で清水港まで来たのです。
ですのであんパンを持参するならともかく、販売となると,
技術やノウハウを伝えなくてはならず、時間とお金がかかりました。

焼津の店は軍関係への積み込みビスケットの需要があると考えました。
ご飯を炊くには火を使い煙が、敵に居場所を教えるようなものだと。
軍も缶詰とビスケットという大規模な食料の改革を行っていったのです。

この時代を象徴 する言葉として有名なものに
「散切り頭を叩いてみれば、文明開化の音がする」という 言葉があり
官民両方ともエネルギッシュな時代の流れがあったのでしょう・・・
ジャムパンも木村屋3代目が考案したと言われています。
             

明治19年から130年近くは経っているのです。

その場所を特定しようと紺屋町名店街の地図を調べたいと行きましたが、昭和15年の静岡大火や昭和20年の戦火に焼かれ現在残っている地図は昭和2年のもの。

残念ながら特定出来る店名は見つける事が出来ませんでした。
開店から昭和2年までは40年近く経っていますが、本当に残念・・
(焼津店は明治21年4月開店現在は不明)。    
    「銀座木村屋あんパン物語」より







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駿府談判第2弾

慶応四年三月初旬の或る日、明るき日の午前。

駿州静岡の城下 征討大提督府武家参謀の詰所。

家は伝馬町の富豪某居住なりといふ。舞台の装置は平舞台、室内より庭園を見る。

武家参謀詰所は、十畳ほどの二室を打っ通してそれにあて、その奥に廊下あり、鍵の手に曲りて

総督府の御用室に通ずるも、御用室は見えず。一室には、急造りの大卓子(テーブル)を置き

床几敷脚あり。・・・

幕あく。詰所出仕樋口某、谷村某、安場某、二室の中間に一丈四方の大地図を広げて・・・・

*****こんな書き出しではじまる、真山青果作・歌舞伎  ”慶喜命乞い”

   
  講談社・真山青果全集 第7巻に載っています。
        第1部  江戸城総攻
        第2部  慶喜命乞い
        第3部  将軍江戸を去る
 
     が、かつて歌舞伎で上演されたのです。
       
      第2部の慶喜命乞いは、私達が知っている
    伝馬町の 昔の東海道沿いにあった松崎屋
    源兵衛宅での 西郷・山岡のお話です。
     

慶応3年(1867)徳川慶喜は264年に及ぶ徳川幕府の征夷大将軍の地位を朝廷に返上した。
大政奉還である。しかし、慶応4年(1868)1月鳥羽伏見の戦いで勝利した新政府軍は“錦の御旗を掲げた”のに対し朝敵として慶喜は追撃されることになった。

慶応4年3月5日5000人を率いて東征軍大総督・有栖川宮熾仁親王は江戸に向け進軍、駿府の町に到着した。参謀・西郷吉之助の宿舎は城代屋敷(有栖川宮の宿舎)の傍の伝馬町・油屋の松崎屋源兵衛宅であった。

慶喜公の命嘆願を願う和宮さま・篤姫さまの手紙が飛び交い、上野寛永寺の坊さんの命乞い、また勤王派に忠誠を誓う旧幕臣の取次・・・・  将軍の恭順にもかかわらず、幕府の残党はどこまでも官軍に反抗しようと戦備を用意し、西郷吉之助を総大将とする官軍もまた江戸城を粉砕して徹底的に江戸の壊滅を考えていた。

ここに慶喜公の依頼を受けて駿府を目指して馬を走らせたのが山岡鉄太郎と薩摩藩士・益満休之助であった。「朝敵徳川慶喜の家来山岡鉄太郎、大総督府へ罷り通る」と大声で名乗り・・由比の望嶽亭や次郎長の話もありますが・・西郷と山岡は、お互い胸襟を開いて意気投合し、多いに談じたと言います。その中で7か条の条件の提示の1つだけ・・・・慶喜公を備前藩にお預け・・・それだけは、絶対に譲れなかったのです。







そんなお芝居を
静岡でも、見てみたいですね。


第3弾は
木村屋の
  あんぱんです。                



歌舞伎座
パンフレットより


                         

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静岡市葵区伝馬町にある
               西郷・山岡の駿府談判の壁画


                 
大政奉還から今年は150年を迎える記念の年です。
「江戸無血開城」論考として平成29年6月30日の静岡新聞夕刊に水野靖夫氏の記事が載りました。今まで
西郷隆盛と勝海舟との間で締結されたとされ、その下準備と言われている山岡鉄舟の駿府・松崎屋での功績の認識が少し変わるかも・・・・・

慶応4年(1868)3月9日15代将軍徳川
慶喜公の命を受けて山岡鉄舟と薩摩藩士・益満休之助が急ぎ江戸総攻撃を目指し進撃してくる新政府軍の有栖川宮幟仁親王を大総督とする東征軍の参謀・西郷吉之助(隆盛)と幕臣山岡鉄太郎(鉄舟)の会見が、ここ伝馬町・松崎屋源兵衛宅で行われた。
慶喜公の恭順・慶喜公の処分の譲歩を確約した上で
西郷・勝のお膳立てをしたのであると・・これが
「駿府談判」と言われる由縁です。


         



水野さんは英国公文書を丹念に読み解いて、山岡鉄舟の性格にもよろうが功績を勝海舟に譲ったと・・・山岡鉄舟・・その人間性は、西郷隆盛をして「金もいらぬ、名誉もいらぬ、命もいらぬ人は始末に困るが、そのような人でなければ天下の偉業は成し遂げられない」と賞賛させました。この駿府談判での歴史は見る目が変わりますよ














         
                                                                                     
「西郷・山岡会見史跡記念建設記念誌より」

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小島藩を知る」~県中東部唯一の大名

小島陣屋跡は、国道1号線興津東端から52号線を約4km北上、「小島南」の信号を左折した山手の高台にあり、陣屋からは興津川を挟んだ小島集落が一望できます。ここでは、国指定史跡に指定された(平成18728)小島陣屋跡をご紹介します。

【小島藩とは…】

小島藩主のルーツは、徳川氏(松平家)の三河時代の分家・十八松平の一つ滝脇松平に始まります。さらに八代滝脇松平・信治が元禄18(1698)6月、武蔵・上野・駿河の3国にわたる所領のうち、武蔵・上野の所領を収公し、駿河の庵原・安倍・有度と新たに小嶋村など18ヶ村を与えられ、30ヶ村・1万石を領有します。このことにより初代小島藩主の誕生となります。

そして、6年後の宝永元年(1704)、甲州往還(身延道)の要所・小島の地に陣屋を築き、以来慶応4(1868)に十代小島藩主信敏が上総の国(千葉県木更津市)へ転封に至るまで170年間、駿河の国・県中東部唯一の大名として所領の統治を続けてきましたが、廃藩となり陣屋としての使命は終わりました。

 

幕末の県内大名配置          小島藩領地分布図

 

【小島陣屋】

陣屋というのは大名の住まいであり、藩政を行使する役所でもありました。いわゆる城なのですが、徳川時代には大名は規模によって、城主、城主格、無城主に分けられ小規模な大名は例え城の構えを持っていても「城」と呼ぶことは許されませんでした。小島藩は1万両の大名としてその藩主の居場所は、「陣屋」と呼ばれていました。

 

陣屋のある高台は、「別当沢河岸段丘」と呼ばれ、南は沢によってえぐられ天然の堀の役目をし、山側の緩やかな斜面地は、石垣を多用して台地を確保した階段状の石塁構造が特徴です。表門から陣内へカギの手に曲折している枡形を取り入れた通路や、陣屋で一番の見所との評判の高さ4m強の石垣が東面に見られます。この石垣はいわゆる「切込みハギ・算木積」と呼ばれ、コーナー部分に加工石を急激な勾配に反りを取り入れ積み上げた石垣です。このような構えは陣屋にあまり見られない城郭づくりだそうです。

                     

小島陣屋の石垣(大手門付近)

現在陣屋の跡地は、茶や野菜の畑になっており、東側の石垣に沿っては住宅化されていますが、中央部の主殿跡は広場として開放され地域の憩いの場に利用されています。現在整備は十分ではありませんが遺構としての保存度はよいと評価されています。地元の自治会を中心に保存運動が活発に展開されています。 

 

小島陣屋絵図(大正2年刊行の『小嶋村誌』より)

 

陣屋跡全体(北川より撮影)

【小島藩の育まれた文化】

   三代藩主・昌信と四代藩主・信義に仕え、わが国の国文学史上「黄表紙の祖」とされる100石取りの武士・「恋川春町」(戯作者・浮世絵師・本名:倉橋格)を輩出するなど小藩ながら特色ある文化が生まれました。

 

小島藩主・書院      三代藩主・昌信公が葬られている龍津寺

小島藩主・書院は、昭和3年に陣屋から現在の国道52号線沿線に移築され、小学校長室兼住宅、公会堂として使われてきました。昨今、重要性が叫ばれるようになり元の陣屋跡へ復元・移転が計画されています。

 

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安倍鉄道~100年前に走り出した軽便鉄道

今からちょうど100年前、安倍川沿いに続くのどかな田んぼの中を軽便が煙を上げ客車1両、貨車1両を引いて進んでいました。敷設の目的は、安倍奥の豊富な木材資源の開発と、人口増加により日用品の需要増のため、貨物輸送が必要となったのです。この「幻の懐かしい鉄道」が安倍鉄道だったのです。大正5(1916)から昭和8(1933)にかけて静岡市葵区井宮から牛妻までの9.4Kmを走った小さな軽便鉄道でした。

廃線からすでに80年余りが経ち、廃線跡は大きく変わり、昔の面影を見ることはできませんが、安倍鉄道の敷設は静岡市民にとって忘れることのできない一大事業でした。ここでは鉄道の歴史を振り返つてみます。





     

         井宮駅跡          大正10年頃の井宮駅(山梨写真館提供)

【走り始めた安倍鉄道】

安倍鉄道の正式名称は「安倍鉄道株式会社」ですが、人々には軽便として親しまれました。起点の井宮駅は現在の井宮交番の裏の一角約500坪が駅と機関庫になっていました。珍しい気持ちも手伝って乗客はかなり多く、最初の頃の収入は貨物より旅客のほうが多かったようです。終点駅は牛妻の坂下に置かれました。その間に簡単な8(菖蒲谷・御新田・役所前・福田谷・下村・大土手・門屋・中沢)が置かれました。(写真・右上 井宮駅跡の説明看板)


【上り坂だから、牛妻行が《上り》】

安倍鉄道は起点が井宮なので、牛妻行は下りになるのですが、当時の重役が「牛妻行は上り坂だから《上り》にしよう!」と決めてしまったそうです。井宮~牛妻間の運賃は、大人が24銭、子供は半額の12銭でした。また、自転車は5銭、乳母車は10銭で、デッキに縛り付けては運んだということです。当時の時刻表によると、牛妻行、井宮行とも始発が午前6時に同時発車。それ以降は、7時、8時…1時間ごとに両駅を発車し、最終は午後8時の14往復でした。(写真・右上 福田谷駅での上り・下りのすれ違いの様子)

                     

大正5年に開通した頃の安倍鉄道の機関士はわずか3人でした。他に車掌が4人、機関工が2人、 駅員3人、機関助手3人、線路作業員6人の合わせて21人でした。鉄道
会社としては職員が少なく誰もが昼夜を問わず、油にまみれて働いていたと言います。

     

           牛妻駅跡          大正14年頃の牛妻駅(山梨写真館提供)

【事業不振で鉄道廃止へ】

安倍鉄道は、貨物輸送や地元住民の足として親しまれ、大正5(1916)の営業開始以来順調に
収益伸びていきました。大正6(1917)には貨物量は更に増加し、一時期は改軌や梅ケ島温泉
への延長、藁科川の支線の構想があり、静岡駅までの延長が計画されたこともありました。
しかし、大正7(1918)になると国内経済は不況に見舞われ、安倍鉄道は、致命的な打撃を
受けることになりました。

大正12(1923)91日の関東大震災では、静岡でも被害受け福田谷の橋台の石垣が崩れる
など修復に多額の費用がかかりました。

大正13(1924)になると開業以来7年余りとなり早くも線路の枕木、貨物等の破損が出始め修理のための費用が増えていきました。この年を境にして営業成績も急激に低下していきました。

事業不振の直接の原因は、昭和に入りバスやトラックによる輸送が始まり、旅客や貨物がそちらに取られたためです。昭和8(1933)安倍鉄道は、廃止されました。

                 

【安倍鉄道の生き証人】

安倍鉄道の生き証人、三ツ谷光雄さんをご紹介します。光雄さんは、現在93歳。昔のお話を聞かせてくださいました。「らっきょう機関車に乗った記憶や、天気の良い日には無蓋車(むがいしゃ:貨車の一種)に布団を干したことなど…」17年間のわずかな時間、安倍鉄道が本当にあったのだと実感しました。安倍鉄道廃止後は、牛妻駅の跡地を光雄さんのお父さんが購入し、全面柿畑だったそうです。光雄さんは、現在の地主さんです。



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宇津ノ谷峠にある4つのトンネル…明治のトンネル編

静岡県で観光名所となっているトンネルと言えば、伊豆の「旧天城トンネル」が有名ですが、それに負けず劣らず風情のある佇まいを見せているのが、現役のトンネルとして初めて登録有形文化財となった「明治のトンネル」です。静岡市と藤枝市・岡部の間にある宇津ノ谷峠には、この「明治のトンネル」の他に便宜的に「大正のトンネル」、「昭和のトンネル」、「平成のトンネル」と呼ばれる3つのトンネルが平行しています。

時代ごとに、このようなトンネルが残っていることは珍しいことですが、ここでは宇津ノ谷峠の歴史と共に「明治のトンネル」をご紹介します。

【蔦の細道(古代・中世 約700年~1590年頃)(緑色)

宇津ノ谷峠越えの最も古い古道で奈良時代からと思われます。この道は、平安時代の文学作品、「伊勢物語」により広く知られるようになりました。奈良・平安時代にかけて在原業平、藤原
定家等の歌人が多くの詩を残しています。

【旧東海道】(赤色)

天正11(1590)豊臣秀吉が小田原征伐の時、大軍を通すために開拓されたものだと言われています。江戸時代に入り正式な東海道として参勤交代、朝鮮通信使や一般の旅人が明治初期まで
通行していました。

【明治のトンネル】(黄色)

・日本初の有料トンネル

旧東海道は、途中、斜面の崩壊などの危険を伴う個所が数多く存在していたため、街道脇にはその頃築かれたと思われる防護用の石垣が今も残されています。そんな難所となっていた宇津ノ谷峠に、当時の村長であった「宮崎総五」の呼びかけに賛同した7人による結社をつくり、トンネルの掘削工事が開始されました。結社で工事費用の2/3以上を賄い、50年間「道銭」の徴収を許されたが我が国初の「有料トンネル」として知られ
ています。

この「明治のトンネル」は、峠越えの危険や労力を大幅に減らすものとなりましたが、このトン
ネルにはいくつかの特徴がありました。

(写真・右 : 静岡側より見た「明治のトンネル」)

・東西の出入り口の工法の違い

岡部側…比較的地盤が良かった為、トンネル内を木材で覆う工法がとられました。

静岡側…静岡側から20mは地盤が悪く崩落の危険が高かった為、石組みの工法がとられました。

このように、東西で全く印象の異なるトンネルとなりました。

・明治のトンネルの秘密

両サイドより始められた掘削作業は、出会うはずの場所で出会うことが出来ず、高低差が生じるとともに、くの字のように折れ曲がるといった現代では考えられないお粗末な姿のトンネルとなってしまいました。掘削技術の未熟さ、測量技術のレベルの低さ、予算的な問題もあって当初の計画とは大きく異なるトンネルとなってしまいました。

明治11年、明治天皇御通行の際には中央付近では危険の為、下馬されたとの記録も残っているそうです。

入り口には、太陽光を取り入れる反射鏡が、またトンネル内には50ものカンデラが吊るされていましたが、それでもただでさえ暗いトンネル内部において、入口から出口が全く見えない、くの字のトンネルは、中央付近にいくと顔を伺うことさえできなかったと記録にあります。

・生まれ変わった「明治のトンネル」

こんな明治トンネルでしたが、明治29年にこの闇を照らしていたカンデラが原因となって火災が発生しました。それから何年かは元の峠道を行くこととなりましたが、明治37年に改修され、くの字から一直線に、内壁も耐火レンガで覆いつくされ実に美しいトンネルに変貌しました。レンガの色は、一般的に黒い方が強いと言われています。上側と下側の色に着目してみてください。

                     

平成8年に行われた2度目の改修では、トンネルの補強と照明が付けられました。補強では、裏込め工法とロックボルト工法で補強された跡がありますが、目立たないよう工夫されています。                      

開通から利便性とともに、大いに賑わいを見せた「明治のトンネル」でしたが、時代の変遷の中、鉄道が開通すると、主役の座を追われ、やがて利用者減っていきました。その後、自動車社会が訪れると、交通の主役は、人馬から車へと移って行き、宇津ノ谷峠を抜けるトンネルも変遷していきました。

冒頭でも紹介した通り、宇津ノ谷峠には、明治、大正、昭和、平成の4本のトンネルがあります。明治から各時代のトンネルが現存し通行できるのは全国でここだけです。まさに「道のエコミュージアム」です。




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『かえるまた よみがえる』を見学しました。      

                                                                                                        
さる96日に、静岡浅間神社の大歳御祖神社本殿に取り付けられていたいた蟇股彫刻の展示「かえるまた よみがえる」が静岡浅間神社内の静岡市文化財資料館で行われ、ウエイブ会員が伊東一洋館長と静岡市文化財課:永田匠治主任主事から展示の趣旨とその価値のレクチャーを受けたあと、実物を見学しました。

 蟇股は社殿上部に設けられた部材で、カエルが足を広げたような形であることに由来し、静岡浅間神社の「平成の大改修」で第1弾となる大歳御祖神社の工事のために取り外し、修復した彫刻16点が公開されました。
 すべて動物と植物がモチーフで、江戸時代の職人の高い芸術性と色合いなどを忠実に再現した現代の技術を、下絵や修復前の写真と見比べながら感じました。


実際の作業は下絵書き・彫刻彫り・色塗りなどを分業で行われ、価値あるものばかりですが、中でも普段は中央に設置してある雲ニ鳳凰“、”唐松ニ豹“は見事でした。

 
本殿は普段でも入ることはできず、彫刻は高所に設置してあり、はっきり見ることはできないため、間近で見ることができた貴重な機会でした。次の修復は数十年後のため、現在のウエイブ会員は二度とその機会はないでしょう

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「赤い靴」の女の子

童謡「赤い靴」の女の子は、異人さんにつれられてアメリカへは行っていなかった…

 静岡市の日本平の山頂に赤い靴の母子像があります。この地で私たち駿府ウエイブが観光ガイドをしていると、この像を見て「横浜にあるのは知っていたけど、なぜここにあるの?」とか、「函館に観光に行った時、ガイドさんから赤い靴の女の子の話を聞いたことを思い出した。」など、よく話題になります。ここでは童謡「赤い靴」にまつわる話をご紹介します。              
(写真右・日本平山頂から見た富士山) 

・童謡「赤い靴」にまつわる話

この童謡のモデルになった女の子は「岩崎きみ」と言います。明治37(1904)に現在の静岡市清水区宮加三(日本平の麓の村)に生まれました。母親の名前は「岩崎かよ」といい、18歳の未婚の母でした。父親の名を明かせない私生児ということから世間からの風当たりは強く、周囲からはふしだらな女と白い眼で見られていました。
       昭和61(1986)に日本平山頂に設置された・赤い靴の母子像

 そこで、母子は逃げるように北海道の函館にたどり着いたのです。母「かよ」は、函館で出会った「鈴木志郎」と知り合い、まだ小さい「きみ」がいることを承知で求婚され、結婚しました。

 しばらくして、夫「志郎」のもとに「平民農場の開拓に参加しないか?」との誘いがあり志郎と共に、開拓村(北海道留寿都村)への入植を決意します。当時「きみ」ちゃんは、3歳。明治時代の開拓村は、命がけで幼い子供を連れて行くなど考えられませんでした。そんな時、偶然知人より、アメリカ人宣教師のヒュエット夫婦が養女を探していることを知りました。「かよ」はずっと悩んだ末に「きみ」ちゃんを宣教師夫婦に養女として託したほうが、幸せになれるだろうと決意したのです。このヒュエット夫婦こそが歌詞に出てくる異人さんのことです。 (写真右・ヒュエット夫婦 ) 

しかし、そこは予想以上の過酷な環境と労働でした。ここでの農場団は結局苦労の末解散してしまいます。「きみ」ちゃんを、ヒュエット夫婦に託してから2年後のことでした。「かよ」と「志郎」は、二人の間に生まれた娘「その」を連れて札幌に出ます。

札幌に出た「志郎」は新聞社に入社、そこで同僚として知り合ったのが、野口雨情でした。同世代、子供一人という家族構成ということもあって急激に親しくなり家族ぐるみの付き合いが始まります。そして親しくなった雨情に「かよ」は、ヒュエット夫婦と共にアメリカに行き幸せに暮らしていると思うものの、片時も忘れることのできない「きみ」ちゃんへの思いを話します。母親の愛に感動した雨情はこれを詩に綴りました。この詩に本居長世が曲をつけて完成し、大正10年に発表したのが童謡「赤い靴」です。 

 この「赤い靴」の女の子が実在していたのが分かったのは、昭和4811月、北海道新聞の夕刊に掲載された『野口雨情の赤い靴に書かれた女の子は、まだ会ったことのない私の姉です。』という「岡その」さんからの投稿記事がきっかけでした。この記事を当時北海道テレビ記者だった菊池寛が知り5年あまりの歳月をかけ、昭和53年に女の子が実在していた ことを突き止めました。 

・赤い靴の女の子…その後の真実 

ヒュエット夫婦は、「きみ」ちゃんを、引き取り後、わが子のようにかわいがりました。しかし、「きみ」ちゃんには、病魔がおそいかかっていたのです。それは、その当時不治の病と言われた結核でした。このような状態の時、ヒュエット夫婦にアメリカから帰国命令が来ました。病の「きみ」ちゃんを、長い船旅で連れて行くことはとてもできず、命令は守らなければなりませんでした。そこでやむなく東京麻布十番の同じ系列教会の孤児院に預け、辛い思いでアメリカに向かったのでした。「きみ」ちゃんは、アメリカに行くことなく3年間の闘病生活の末、僅か9歳の短い命を閉じたのでした。お母さんと別れて5年後のことでした。現在、東京・六本木の鳥居坂教会の共同墓地に眠っています。この鳥居坂教会の近く、麻布十番に平成元年(1989)に「きみちゃんの像」が建てられました。(写真右・きみちゃんの像)

母親の「かよ」は、死ぬまで自分の娘「きみ」は、ヒュエット夫婦と一緒に元気に暮らしていると信じていました。野口雨情もこの歌を作詞する時、「きみ」ちゃんの真実を知っていたならば、童謡「赤い靴」が生まれることはなかったかもしれません。もしくは、かなり違った歌になっていたかもしれません。 

・赤い靴の「きみちゃんの像」は全国にあった 

「きみちゃんの像」は、上記の麻布十番のほかに、生まれ故郷の日本平山頂。歌詞に「横浜の波止場から…」とある横浜の山下公園と横浜駅中央通路。母「かよ」と父「志郎」たちにとって初めての地、函館にも平成21(2009)に開港150周年として出来ました。さらに、入植した開拓農場の北海道留寿都村(るすつむら)。夫婦が晩年を過ごし、お墓のある小樽市の運動公園にもあります。また、平成22(2010)には父志郎の故郷である青森県鯵ヶ沢町にも完成しました。
さらに2010年にアメリカ・カリフォルニア州の南部、横浜市と姉妹都市のサンディエゴ市の海辺の公園にも設置されています。(写真右・一番古い、横浜・山下公園のきみちゃんの像)




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悲運の駿河大納言ゆかりの地(墓と高根白山神社)を訪ねました。
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藤枝中心街から瀬戸川沿いに約20Kmぐらい北へ行った、びく石(石谷山)の麓:市之瀬地区にある市民の森入口の橋を渡り左に曲がった先の道沿いに20基ぐらいの墓地があり、そのほぼ中央にある古びた墓が駿河大納言(忠長)の墓と伝わっているそうです。
忠長は2代将軍秀忠の2男で、慶長11年5月江戸城で生まれました。幼名は国千代(国松)、生母は近江小谷城主浅井長政の3女、すなわち織田信長の妹小谷(お市)の方の娘で、淀君の妹お江与の方(崇源院)です。お江与の方DSC_2558に溺愛された忠長は、一時は兄の竹千代(家光)をさしおいて世嗣に噂されるほどであり、将軍秀忠も夫人の影響を受けてか、家光よりも忠長をかわいがったようです。
元和4年13歳の忠長は、甲斐20万石を与えられ、同8年には信濃小諸5万石を加増されて25万石となり、さらに寛永元年8月には駿河及び東遠江において25万石を加増され、甲斐府中(甲府)から駿府に移って50万石を領し、同3年には官位も従二位権大納言に昇進して官位と所領の面でも尾張・紀伊両徳川家と肩をならべるにいたりました。

忠長は高崎にて(1632年)乱心のかどで実の兄:3代将軍家光に自害を命じられ27年DSC_2561の生涯を閉じたと言われていますが、家光も忠長も徳川二代将軍秀忠とお江与の子供で、お江与と春日局の確執が有り、乳母であった春日局が家康に直訴して将軍になった家光から疎まれ、父である2代将軍秀忠が亡くなった後に追放され非業の最期を遂げています。

また、忠長は秘かに市之瀬の遠藤家に匿われ天寿を全うし、その墓石が遠藤家の墓所に有るという伝説があります。駿河大納言の墓は群馬県にありますが、ひそかに市之瀬へ落ちのび高根白山神社に匿われ余生をおくったとも伝わっています。
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高根白山神社は1185~1190年(鎌倉時代前期)愚白上人が加賀国白山より勧請して創建されたと言われています。その後、加賀国・白山より遠藤加賀守・藤原正
DSC_2758重が1597年(桃山時代)神官として赴任し、市之瀬に居を構え遠藤家が歴代神主を務めました。高根白山神社は鼻崎の大スギから細い山道を車で10分ぐらい進んだ突き当りにあります。例祭には静岡県無形文化財に指定されている高根神楽が奉納されています。
将軍の座を争い敗れた忠長は寛永元年八月十一日、二代目の駿府城主として駿河・甲斐を治め世間から駿河大納言と呼ばれ、駿府在城の節は折々高根白山神社を参拝して五穀豊穣、航海安全を願い、毎年幣物を奉納していました。
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 忠長は駿河国において領民の苦労を見ておれず、”箱根八里は馬でも越すが越すに越されぬ大井川”と謡われた大井川に橋を架けたり、 神の使いとして敬われながらも一方
DSC_2445で群れを成し農作物を食い荒らし 農民を苦しめる浅間神社の猿を懲らしめたり 、食膳に出た練り製品が気に入り調理人:戸川半平の名前を取りハンペンと名づけたり、数多くのエピソードを残しています。

この忠長改易後の駿府はお家騒動をなくすためか、幕府直轄地として大坂城と同様に城代以下の諸役人が配置され、明治時代まで特殊な支配が展開されることになりました。


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花倉城址を訪ねて
 
CIMG0061  爽やかな季節の始まり、近場を歩いてみました。のどかな鶯の鳴く里の山道を1時間ほど登ると葉梨の村が見えます。そこが大手門で、ここから道が狭くなり、この坂を15分登ると堀切・土塁・二の丸があり、本丸へ到着します。そこには本当に小さな城址がひっそりと有るだけでした。この杉林は若く、兄弟が血で血を洗う戦いがあったと言う事を知っては、いないだろう・・・
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この5月19日は今川義元公の命日です。この義元が少年の頃、兄弟で争ったと言う葉梨郷を訪ねました。今川家は室町幕府からの駿河国守護として今川範国が就任したことに始まります。その中心の駿府の町には、南朝方の豪族・狩野氏の勢力が強く地盤を固める事が出来なかったので、2代範氏は島田の大津城(島田市大草)に居館を構え、領国経営に着手し、次に葉梨に(藤枝市葉梨)ここは三方を山に囲まれ守り易く、攻めにくい場所であり、山の上に花倉城を設け、麓に家臣団の城下集落を作っていったのです。範氏は南朝方の拠点であった安倍城を攻め、勝利しましたが、父に先立ち死去しました。その後を継ぐべき長子・氏家は病弱ですぐ亡くなり、弟の泰範が3代目を継いだのです。時に室町幕府は3代義満の時代、段々荘園制度が崩壊し守護の権限が拡大していきました。4代範政の頃、ようやく駿府の中心地に進出、今の駿府城の近くへ今川館を築きます。
5代範忠・6代義忠・7代氏親・・・・そして何度目かのお家騒動を経て、天文5年(1536)3月17日に8代氏輝とすぐ下の弟・彦五郎が同日に急死し、跡目相続を巡り、また家中を二分する騒動となりました。正室寿桂尼の子・弟の栴岳承芳が、側室の子・福島氏の子・兄の玄広恵探を駿河葉梨の花倉城へと追い詰め、普門寺で自刃させる騒動を花倉の乱と呼びます。正室と側室という複雑な背景の中、太原雪斉らの奮闘の前に恵探側は苦戦が続きました。その上、承芳側は、伊豆や相模の北条家の支援を得る事に成功し、多くの家臣を掌握し、室町幕府に働きかけ、将軍・義晴の許可を取り付ると、いっそう敗色は濃厚となり花倉城の陥落を以って乱は終わりました。その承芳が還俗をして9代義元と名乗り、一番の栄華を誇る時代を作って行ったのです。・・・しかし1560年桶狭間で、あっけない最期を迎えたのです。
 
泰範と雪斎墓長慶寺では、和尚さまが待っていて下さり、今川の歴史や太原雪斉の姉・太年尼(たいねんに)が廃れていたこの寺を再興し、真言宗から臨済宗妙心寺派への改宗をして、太原雪斉は中興開山としてこの寺で亡くなりました。また白い蛇の墓守の話が聞けました。3代泰範と太原雪斉のお墓があります。

遍照光寺・氏家 範氏 2遍照光寺の前に広がる辺りに今川の城下集落があったと言われています。ここの僧だった玄広恵探は、花倉城から普門寺へと逃れ裏山で自刃しました。その墓には塔婆が供えられ18歳と書かれてありました。2代範氏とその長子・氏家の墓があります

普門寺普門寺は寺まで登る階段もゆったりと静寂の中、歴史の舞台に一段一段登っていきました。太原雪斉木像

この目で見て、風を感じて、汗を流しました。爽やかでした。

                     
              



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  登録有形文化財「西草深の洋館」
 西草深の洋館をご存知ですか?ウィリアム・メレル・ヴォーリズ氏が設計して
昭和25年(1950)に建てられた「旧静岡英和女学院宣教師館」のことです。
この洋館が文化庁から登録有形文化財に指定されました。    
                      
                   
                             

     ヴォーリズ氏は明治13年(1880)アメリカに生まれ、24歳の時にキリスト教伝道のため来日。以後、昭和39年(1964)に亡くなるまで日本で過ごしました。

 来日当時、英語教師として赴任しましたが、彼の熱心な伝道活動が地元の人々の反発を招き、2年で職を解かれてしまいました。 しかし、これが彼の運命を変え、学生時代の夢・建築家の道へ進みます。


 関西学院大学、神戸女学院大学・・・ヴォーリズ氏は明治から昭和にかけて日本全国に千を越える洋館を建てたそうです。彼の作品は実用性に重きを置き、簡潔ではあるけれど豊かなデザインと親しみやすく包容力のある空間なのが特徴です。「日本で最も愛される洋館」を作ったと言われています。

 ヴォーリズ氏は大正13年(1924)静岡英和女学院の校舎の設計に関わりました。白いモルタルの壁に赤い屋根、スパニッシュ様式の壁の紋章・・・もしこの校舎が昭和20年(1945)の静岡大空襲に遭わず現存していたら、静岡市の貴重な文化財になったことでしょう。
 高松にある旧マッケンジー邸もヴォーリズ氏の設計です。昭和15年(1940)に建てられ、登録有形文化財に指定されています。
 さて、西草深の洋館には、静岡英和女学院の校長先生、カナダから派遣されてきた若い婦人宣教師の方たちが住みました。異国情緒溢れるリビングルームではバイブルクラスや様々な集会が行われ、特にキャンドルに照らされたクリスマス祝会は、今も参加された方たちの良い想い出となっています。
                     
洋館は建築から65年余経ち、建物は今にも朽ち果てそうな状態で存続が危ぶまれていました。漆喰の壁は剥げ落ち、屋根瓦は一部崩壊し雨漏りがするようになっていましたが、「西草深の洋館を守る会」のご尽力により、古い塩焼和瓦を活かしながら屋根を葺き替え内部も修復し、美しく変身しました。

現在は静岡英和女学院卒業生の榎戸ご夫妻が「暮らしながら保存」をテーマに洋館に住み、完全予約制のレストランとして営業をしています。レストランの名前は《ミス・カニンハム》。一人でも参加できるランチ会も開いています。
                       
 *登録有形文化財 都市開発などで消滅が危ぶまれる近代建造物を守るため、1996年に設けられた文化財登録制度に基づいて登録される。築後50年以上がたち、歴史的景観や造形に優れ、再現が容易でないのが選考基準。登録されると、修理のための設計監理費の補助や減税の措置が受けられる。厳しい規制がある指定文化財と違い、外観を大きく変えなければ改修や改装も認められる。
       
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地域産業遺産シンポジウム

 静岡市が主催する「地域産業遺産シンポジウム」が、2月5日(金)午後2時より約2時間半にわたり、静岡市葵区のしずぎんホール・ユーフォニアにて開催されました。
テーマは、駿河の人・茶祖の伝えた不思議『水磨様

 800年前、聖一国師が伝えた製粉の仕掛け「水磨様」の謎と不思議に近づくためのシンポジウムでした。
 第一部は、基調講演(聖一国師の業績と人柄・水磨様の果たした役割など)。第二部は、7人のパネラーによるパネルディスカッション『製粉の仕掛け「水磨様(すいまよう)」を考える』で構成されていました。

 聖一国師は、建仁2年駿河国安倍郡栃沢(静岡市)に生まれ、仏教の修行に行った宋よりお茶の種を持ち帰り葵区の足久保に捲いたのが静岡茶の始まりです。また、紅葉の名所として有名な京都・東福寺や博多祇園山笠発祥の地・福岡の承天寺などを開山しました。宋より帰朝の際には中国の進んだ文化(水車・製粉機・そば・うどん・まんじゅう)を日本に伝えました。(静岡市発行の資料より)



                       パネルデスカッション

 水磨様(すいまよう)とは...

 聖一国師は、宋の国から命がけで持ち帰った「大宋諸山図」(京都・東福寺に保管)の巻末に不自然な形で水磨様と記された図面が記されていました。水車を使って石臼を動かすありさまを描いた水磨様の図です。当時としては最新の製粉設備であり、水の力を効率よく使い大量に粉を引く仕組みが伝わったことで製粉技術が大きく花開き、製粉プラントの原型となったと考えられています。



              東福寺に保管されている「大栄諸山図」にある水磨様図

 図のみでは正確な復元が難しいため、水磨様のペーパークラフト模型を製作されたのは、動く段ボールアート作家の千光土義和金でした。謎解きをしながら一つの形にしたと話していました。左図は段ボールで造られた水磨様の模型であり、ブルーの部分は水の流れを表わしています。



  聖一国師の偉業と感想

 福岡では、宋より帰国した聖一国師が承天寺(福岡市)を開き製粉技術や麺・まんじゅうなどの料理をもたらしました。福岡は、うどんとそばの発祥地の地と言われ承天寺には麺とまんじゅうの石碑も建てられ、郷土の偉人として親しまれています。また、博多の勇壮な夏祭りである博多祇園山笠は聖一国師が起源とされています。
福岡での名声は京都にも広く知られることとなり、九条道家の熱心な要望により京都に上がり、東福寺を開山しました。静岡では、持ち帰った茶種を故郷の栃沢や足久保に種をまき丹精込めて育てた結果、静岡茶の産地として発展してきました。このような数々の偉業を成し遂げた郷土の生んだ偉人、聖一国師は故郷静岡でまだまだ顕彰が不十分であるよう感じました。800年が経過した今、聖一国師が残した水磨様の図をもとに静岡の特産技術を結集し、水車を復元して引いた粉で作ったそばやまんじゅうが食べられたら素晴らしいことではないでしょうか。

 聖一国師の偉業は、福岡・京都・静岡と点で結ばれてきました。更に連携して発展させることができれば重要な観光資源となりうると思います。また、徳川家康公だけでなく聖一国師をさらに顕彰して全国に情報発信ができれば地域の発展に役立つと感じました。

 
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有東木盆踊り

奥静岡(オクシズ)の有東木で814日・15日に行われた盆踊りを見てきました。


有東木は安倍川の上流で標高が300m、霧深き山葵(わさび)とお茶(本山茶)の里として、また山葵の発祥の地として知られています。有東木の山葵を徳川家康公に献上したところ、「天下一品」と褒め称えられ、以後門外不出となったと言われています。その後、弁当箱に隠されて伊豆に伝わり栽培されたと伝えられています。

東雲寺境内に灯篭がともり暗くなりかけた630分過ぎより踊りの輪ができ始め、暗くなるにつれて人の輪が益々大きくなっていきました。太鼓と古風な小唄にのって男踊り、女踊りと続き風流灯篭も見事でした。最後は、寺から続く坂道を下り、ササラや灯篭の飾りを燃やし先祖を送る営みが行われました。有東木の盆踊りは、国指定重要無形民俗文化財に指定されており、全国的にも貴重な風流系盆踊りの伝承地域とも言われています。貴重な民族文化を伝える盆踊りが集落でみんなが楽しむ盆踊りになっていると感じました。今では人口が200人ほどとのことですがサポーターの方々ともども伝統文化を継承していって欲しいと思いました。





                         風流灯篭                     

                        


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